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ある夏の日(1)
「ししょさん」
呼ばれたような気がして、菱田朋恵は振り返った。はい、と応えて周りを見渡すが、声の主らしき人物の影は見当たらない。
まさか空耳? と一瞬自分の感覚を疑ったが、カウンターの境界線に目を凝らすと、その向こう側に小さな帽子が浮かんでいるのが見えた。被る部分に青い星のマークがついた、子ども用のキャップだ。
内側で作業をしていた菱田は、座っていたキャスター付きの椅子から立ち上がる。L字に折れた図書館の受付カウンターの、短い辺の方へ近づいていくと、それに隠れていたつばの下に、可愛らしい顔がひょこっと現れた。見た感じでは四、五歳くらいの小柄な男の子だ。両肩にかかった黒いリュックサックを、白い手でぎゅっと握りしめている。
この子に会うのは多分今日が初めてだろう、と菱田は思った。この図書館によく来るちびっこたちの顔は大体把握しているから、そうでない子は自然と分かる。周りに親御さんらしき人がいないのが気になったが、菱田は小さな彼に話しかけた。
「どうしたの? 何かお手伝いしますか?」
少年はほんのり赤く染まった頬で、こちらを精一杯に見上げて喋る。
「ひとつだけの本、ある?」
「『ひとつだけの本』?」
少年はこくりと頷いて、そのまま菱田の顔をまじまじと見つめた。
ひとつだけの本。言葉をそのまま受け取って解釈するなら、それはこの図書館にある本のほぼ全部のことを指す。
基本的に図書館にある本は一種類につき一冊限りで、同じ本が複数所蔵されることは滅多にない。文学賞を受賞したり映画化が決まったりしたことで話題になっている小説を、利用者の要望に応えて二冊用意することもあるが、それはかなり稀なことだ。図書館に所蔵される本は基本的に資料として扱われるので、全く同じ内容の資料をいくつも置いておく理由はない、という判断になる。そんなスペースがあるなら、なるべく資料の種類を豊富にすべく別の本を置きたいというのが、図書館を運営する側としての本音だ。
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