前編

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前編

 カラン、と響きの悪いベルが音を立てた。空調の効いた店内にゆるりと湿ったアスファルトの匂いが入り込んでくる。鼻をひくつかせて顔を上げた。いつの間に雨が降っていたのだろう。  開いた扉と人の気配に目を向ける。 「いらっしゃ……」  ひゅっと息を呑んだ。長い傘を片手に入ってきた男性は、途切れた僕の声を探すように辺りを見渡しながら歩いてくる。  沖村だ。僕は直感的に気づいてしまった。  どうしよう、どうしよう……いや、このままでは目の前まで来られてしまう。 「いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ」  少し大きめの声で早口に言って、目を合わせないように急いでカウンターの奥に引っ込む。背後でぎしりとソファがきしむ音がした。 「ハルくん、お客さん?」  タイミングよくマスターの堤さんが裏から戻ってきた。マスターにお願いするのは気が引けるが、今の僕にはどうしても無理だ。ドキドキとうるさく跳ねる心臓のあたりを掴む。 「マスター、注文取ってきてもらえませんか?」  マスターは後ろに撫でつけられた白髪と同じ色の眉をひょっこりと上げた。僕をじっと見つめている。 「うん、いいよ」彼は穏やかに微笑んだ。 「雨が降り始めたみたいだね。ホットコーヒーがよく出るだろうから、ドリッパーを準備しておいてもらえるかな」 「はい。ありがとうございます」  息を吐き出すと、マスターがひとつ頷いてカウンターから出て行った。  まっすぐな雨の線が、行き交う車のヘッドライトに照らされて白く浮かび上がる。雫が滴る傘をたたみ、鞄から鍵を取り出しながらアパートの階段を上っていく。  小さな部屋の中にも、ぬるく湿り気のある空気がこもっていた。鞄に水滴が付いているのは気づいていたが、そのままカーペットの上に放り投げる。鞄と同じように、部屋の隅にある低いベッドに身体を投げだした。  布団の中を探ってリモコンを取り出し、テレビをつける。夜のニュースだ。アナウンサーの落ち着いた声が流れてくるが、頭にはさっぱり入ってこない。  今日、僕が働く喫茶店に訪れた彼の姿がちらちらと頭をよぎる。髪型は昔よりも長く整えられていて、垢抜けた印象だった。それでも、長い脚をゆったりと前に投げ出す歩き方は変わっていない。 「かっこよかったな……」  思わずこぼれた自分の声にどきりとした。かっこいい。あの頃、何度も何度も頭の中でつぶやいていた。 『本日、ようやく梅雨入りとなりました』  テレビから放たれた言葉に顔を上げた。このタイミングで梅雨入りなんて、出来すぎている。  高校時代、僕は梅雨を待ち焦がれていた。そして卒業して十年経った今でも、梅雨になるたびに沖村のことを思い出していたのだ。  ※ 「今日は体育館二階のギャラリー集合だ」  コーチのひと声で、部室内は不満の色で満たされた。 「あーあ、これからしばらくは筋トレ三昧か……」 「仕方ないだろう。昨日からの雨でグラウンドはほとんど湖状態だ。梅雨時期は夏の大会前に体幹を鍛える良い機会だと思え。特にまだ身体ができていない一年は気合いを入れてやってもらうぞ」  コーチは僕たち一年がいるあたりをじろりと見渡して言い放った。僕はため息をついてジャージを手に取る。  梅雨は一番嫌いな季節だ。室内トレーニングは嫌いじゃないが、雨が続けば外で思い切り走ることができない。  僕の勉強の成績は中の下、美術や音楽はさらにその下。総じて平均よりもちょっと下にいる僕は、唯一走ることだけは得意だった。長い時間走っていると、背中に羽が生えたような、意識がふわりと飛んでいるような気分になれる瞬間が訪れる。長距離走は孤独な競技と言われることもあるが、僕は走っている間の誰にも邪魔されない時間がたまらなく好きだ。    重い足取りの集団に紛れて体育館へ向かう。一年前、ちょうど僕が入学する前の年に新しく建て直された体育館には、バスケットゴールの高さの三方にキャットウォークが設けられていた。そのうちの一つ、入口から階段を上がってすぐのところにある空間はギャラリーと呼ばれていて、試合観戦やちょっとしたトレーニングに使うことができるほどの広さがある。僕たち陸上部が、グラウンドを使えない時期に間借りさせてもらうのがこの場所ということだった。  階下からは、すでにきゅっきゅっとフロアとシューズが擦れあう音と、威勢の良い掛け声が響いていた。 「ジュンヤ!」  聞き覚えのある名前が呼ばれた。その姿を確かめようと、そっと欄干の傍まで近づく。  ジュンヤ――同じ一年の沖村純哉が、走ってきたチームメイトと軽くハイタッチを交わして走り始めた。ただのアップトレーニング、短いランだ。長い脚がしなやかに躍動して、あっという間にスタート地点に戻ってくる。次の人の名前を、よく通る声で呼ぶ。楽しくてたまらないといった風に顔を輝かせて仲間の輪に入っていく。 「直井、何やってんだよ。始めるぞ」 「あ、はい。すみません」  まばらに広がる部員たちの隙間に入り込む。コーチが今日の練習メニューを説明し始めた。どことなく気だるげな空気の中で、僕は下の様子が――沖村のことが気になってしかたがなかった。  僕と沖村は同じクラスではない。でも彼が入学してすぐに人気者になっているのは知っていた。クラスメイトに囲まれて廊下をゆったりと歩く姿は、とにかく人目を引く。高校生活を静かに、無難に過ごしたい僕とは縁のない男、そう思っていたのだ。 「いけ、ジュンヤ!」  誰かの叫び声とともに、階下からわあっと歓声が上がった。トレーニング中にもかかわらず、僕はこらえきれずに下を覗きこむ。  沖村が自ゴールの目前で高く跳び、大きな手のひらで敵チームのパスをさえぎった。着地した低い姿勢のまま人々の隙間に鋭く切り込んでいく。誰も、味方でさえも彼についていくことはできない。上からは、彼の身体が無駄な動きひとつなく重心を変えて、ボールと一体となりながら前進していくのがよく見えた。と、ふっと力が抜けたようにさらに身体が沈み込む。  放たれたボールは大きく弧を描く。スローモーションのようにわずかに回転し、丸い輪に呼び込まれたように迷いなく落ちていく。白いネットがくすぐられたように軽く揺れる。  鋭いホイッスルの音と歓声が同時に湧き上がり、僕ははっと我に返った。  彼の走りは、長距離専門の僕のものとも、短距離ともまったく違う。だけど、踏み出す一歩の力強さ、バネのように弾むしなやかさ、風を切っていくスピード感、そして身体の一部のようなボールの動きが、僕の目にはあまりにも強烈に映った。 「直井、さっきから何ぼうっと突っ立ってんだ! トレーニング追加するぞ!」  コーチの怒声に慌てて元の場所に戻ったものの、心臓が内側から飛び出そうとしているみたいにドンドンとうるさく鳴っていた。彼の走る姿が、いつまでたっても頭から離れなかった。  翌日も、その翌日以降も雨は続いて、僕は毎日沖村の練習姿をこっそりと見るようになった。他の人に気づかれないくらいにさりげなく手早く着替えては、足音を立てずに部室を出てギャラリーまで駆け上がる。  梅雨が終われば、ギャラリーで練習する機会はほとんど無くなる。雨なんか早く止めばいい、とあれほどうっとうしく思っていたのに、空を眺めては雲が途切れないことを祈るようになるとは思ってもいなかった。  皮肉なことに、そういうときに限って『今年は例年よりも早く梅雨明けすることでしょう』なんてニュースで言われたりするものだ。予報通り、その年の梅雨はあっという間に過ぎていった。  待ち焦がれていた梅雨が再び始まるころには、もはや僕はすっかり彼のファンになっていた。同級生で、他のどんな競技だって、あんなに綺麗に走る人を見たことがない。彼の走りを見るたびに、憧れと嫉妬が混じったような感情がふつふつと湧き上がってくる。彼はボールの扱いも人一倍上手かった。ドリブルはもちろん、シュートだってかなりの確率でゴールする。特にスリーポイントシュートが得意だ。ボールが放たれた瞬間に場の空気がぴたりと止まり、音もなくゴールに吸い込まれるのは、見ていて最高に気持ちの良いものだった。  僕がそんな風に彼を見ているなんて、沖村が知るはずもない。二年に上がっても、僕と沖村が直接顔を合わせることは一度もなかった。彼の周りはいつだって賑やかで、眩しくて―― 廊下ですれ違うときだって、僕は床の擦り傷を数えながら歩くことしかできなかったのだ。  いつも通りギャラリーでトレーニングをしていたあの日だって、これまでと何ひとつ変わらないはずだった。  ひとつひとつの瞬間を、今でも鮮明に覚えている。あ、と間の抜けた声が階下から聞こえてきたときだった。  オレンジ色のボールが、ギャラリーの欄干をふわりと飛び越えてくる。とん、とひとつ大きく跳ね、狙いすましたように僕の胸の前に浮かんだ。無意識にボールをキャッチする。コーチが「ったく、危ないなぁ」とつぶやいて僕にボールを返すように視線で促す。  ざらざらとした手触りを手のひらに感じながら下をのぞきこんだ。 「直井、こっち!」    聞き覚えのありすぎる声が、僕の名前を呼んだ。沖村が大きく手を振っている。僕はほとんど取り落とすようにボールを手から離した。少し慌てたようすで沖村が前に出る。ぽす、と音を立てて沖村の腕の中に収まった。 「さんきゅ!」  片手を軽く上げて笑った。彼がチームメイトや、クラスメイトと交わす笑顔と同じだ。 「ジュンヤ、なにやってんだよ」 「悪い悪い」  そんな会話をチームメイトと交わしながら、沖村はそのまま何事もなくボールを持ってコートに戻っていく。  どうして。僕の頭の中で疑問符が飛び交っている。どうして、沖村は僕の名前を知っているんだろう。 『直井』  僕の名前を呼ぶ声が耳の内側でわんわんと響く。  憧れ、嫉妬、羨望――そんなものとは別の感情が生まれていたことに、僕は気づいてしまったのだ。
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