プロローグ

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 帝都から列車を乗り継ぐ事三回。  降りた鄙びた駅から乗り合いのバスに乗って二時間半。  嘗て皇国の皇帝一家が避暑地として過ごした町ローダイトが俺の初めての赴任先になった。  ローダイトは夏でも涼しい山間の町で皇族別邸を中心とした観光産業の他には葡萄や桃などの果物の栽培が盛んな農耕の町だ。帝都や故郷のヴェルクリマでは考えられない様な広い一軒家を格安で借りた俺は、そこから毎日徒歩二十分かけて司法騎士団の詰め所に通っている。広すぎる部屋は寒々しいが、一気に俺の城が大きくなったその高揚感の方が勝った。初出勤の日など緊張で眠れなかったのだが、帝都を発ってから半年も経った今ではそれも良い思い出だ。  実家から時折届く日用品や食材の詰まった届け物も、近衛騎士として今日も皇帝陛下のおやつを買いに行かされている親友からの手紙も全てが日常の物となる。  司法騎士は町の巡回、犯罪者の取り締まり、人の町に現れる魔物の類の駆除などが主な業務内容なのだが、この町はよくある田舎町のそれと同じ様に極めて犯罪の発生率が低い。時折あるのが万引きひったくりの窃盗の類だが、それも大した量の仕事ではない。一月に一度起きれば大事件だ。元からこの町に駐在している先輩騎士の人数も四人と少なく、その内三人が既婚で一人が独身。三人はこの町に骨を埋めるつもりでいるらしく、庭付き一戸建てで元気にお父さんをしている。  真面目に勤め上げれば帝都に転属される事もあるにはあるだろうと言ったのはこの町の分団長だが、彼も三十年この町に居るのだから当てになった物では無かった。  いきなり夢とかけ離れた状況に陥って肩透かしを食らったような気分だったが、実際、現実などこんなものなのだろう。  巡回中に農家のおばさんに貰った桃を齧りながら俺は肩を落として項垂れた。  午前中に一人巡回に出て、街をぐるりと回りながら昼を大通りの大衆食堂『眠り兎亭』―――量が多いわりに安い。味はまぁ、大味だ―――で済ませた俺はもう一度今度は町の外周に沿って広がる果樹園の方まで巡回をして、そうして売り物にならない桃を袋いっぱいにいただいて詰め所に戻る途中だった。  白亜の石畳。皇族の別邸を取り囲むように発展した町なのだから、ローダイトは見た目にはすっきりと綺麗に整った町だった。こつりと革のブーツが石畳を踏みしめる。  夏を過ぎ、十月も半ばに差し掛かった時期だからこの町は少し肌寒いくらいの日が多くなった。日も落ちるのが早くなり、午後三時を過ぎた程度である今ですら、影は長く長く伸びていた。司法騎士の制服である白いコートも夏物からそろそろ冬用の厚手の物にするべきなのかもしれない。  詰め所への最後の曲がり角を曲がる時に学校帰りらしい子供たちが数人声を上げながら走って行った。自然豊かなこの町の子供は町の裏手にある森を根城にしているようだ。俺も覚えがある。幼かった時、レスターと二人で秘密基地を作った事があった。不幸な事に自然が豊かとは言えない街だったから、図書館の裏にある小さな林…いや、植え込みと言った方が良いか、そこに作って一日でバレた。今となれば懐かしく、馬鹿馬鹿しいが大切な思い出の一つだ。 「騎士様ばいばーい」  子供の一人が手を振ってきたので振り返す。桃を持ったままなので全く恰好がつかなかったが、仕方がないだろう。  そのまま食べかけの桃を一口に食べてしまうと、種だけをティッシュに包んでしまってから詰め所のドアノブに手をかけた。 「シミオン・アップルヤード、戻りました」  どうせ誰もいないだろうと高を括って開けた詰め所のドアだったが、驚く事に人がいた。ちょっとした受付の様になっているカウンターの向こうに白髪交じりの分団長、それから手前に町の裏手で葡萄園を経営している夫婦が立って、今ちょうど入ってきた俺を見据えた。。  思わず背筋を真っ直ぐにしてしまう。それから、手に下げた桃の入った袋の存在に気付いてそそくさとそれをカウンターに置いて部屋の隅にある屑籠にティッシュに包んだ種を捨て、それから壁際で直立する。  分団長は職務中にも関わらず銜え煙草だったが、この町でそれを正す者は誰もいない。ぼさぼさの短髪に浅黒い日に焼けた肌。ついこの間一人娘が都会に嫁いで行ってしまったと嘆いていた壮年の分団長は「そんで」と言いながら頭をがりがりとペンの尻で掻く。 「果樹園が荒らされている、と」 「そうなんです」  困ってしまいます。丁度今収穫時期なのに。そう言いながら少しふくよかな奥様が溜息をつく。ひょろりと細長い印象の亭主の方は首から掛けたタオルで額の汗を拭っていた。 「人の荒らし方じゃないんですわ。人なら食い荒らしたりしないで、ナイフなりハサミなりで枝を切るでしょう?」 「まぁそうだなあ」  言って、分団長は俺を見た。それから夫婦の方に向き直ると「じゃああの若いのが見に行きますんで」と当然の事の様に言う。 「俺ですか」 「他にここに若いもんがいるか、シミオン?本当に魔物なら事だからな」  ペンを置いた手で煙草を摘まむとふーっと煙を吐いて、それからにかりとヤニで黄ばんだ歯を見せながら笑う。「銃は携行してるな?」 「はい、持ってます」 「じゃあ行ってこい。何、冬眠の前にはよくある事だ。ちょっと銃で脅してやれば来なくなる」  分団長は話をまとめるとカウンターの上に俺が置いた桃の袋を覗き込んでから抱えると夫婦がこちらを向いている間に顎をちょいと上げて有無を言わさずに行けと命じた。  俺は、勿論仕事なのだから面倒も何もないのだが、何となしに嫌な予感を覚えつつ「はい」と答えて今しがた開けたばかりのドアを開いた。  ドアを閉める瞬間に見えた分団長は桃を一つ取り出して「ほー、今年は豊作だわ」等と呑気な事を言っていたのだった。  夫婦に先んじて歩き出す。この半年で大体この町の住民がどこに住んでいるのかなど覚えてしまった。今回訴えを起こした夫婦の家も然りだ。「よかったわぁ、新人君が来てくれて」と奥様が言っていたが、俺はこの奥様が果実を盗りに来た小型の犬に似た魔物を一人で撃退しているのを酒の席で聞いている。分団長の十八番であるその話が真実ならば、今回の魔物も自分で追っ払ってはくれないだろうか。多分この人なら出来る。背後の夫婦の漫才にも似たやり取りに耳をそばだてながら、俺は切実にそう思った。  詰め所から十分も歩くと夫婦の果樹園だった。裏の森に一番近い場所であるので魔物よけの簡易防御ネットが一方に張り巡らされている。雷晶石を取り付けたもので、触れると電撃を食らわせるものだ。簡単な魔物ならばそれに驚いて近寄っては来ない。 「ネットの、あそこら辺が食い破られたみたいになっててね」  か細い声の亭主が言う。奥様の声の大きさを少しは旦那に分けてやるべきだとちょっと俺は思ってしまった。  亭主が言う方を探ると、なるほど、防御ネットの一部分が食い破られていた。電撃にも怯まなかったのか、若しくは取り付けた雷晶石が古くなっていて雷力切れを起こしていたのか。子供ならば易々と入れそうな穴が開けられた防御ネットの側には二つに割れた蹄のような足跡。 「猪…って言っても魔物猪かな…大きさの割に深い足跡だから妊娠中の雌か」  足跡を辿った先の葡萄の木が無残に折れて深い紫色の果実が地面の上で食い荒らされている。出産の為に栄養をつけに来た魔物猪でほぼ間違いがないように思われた。 「とりあえず、ネットは新しいのに変えてください。今から森に入って来るので…」  言いかけて、ハタと気付いた。そう言えばここに来る前、詰め所の近くで子供とすれ違わなかったか。  知っている。俺はあの子供たちが『魔物猪のいるこの森』を秘密基地にしているのを知っているのだ。 「まずい、子供がこの森に居る」  魔物猪は獰猛な魔物だ。まして出産を間近に控えた雌ともなれば凶暴さに拍車がかかる。俺は立ち上がるとシャツのポケットにしまい込んだ懐中時計を見る。恐らく子供たちが入ってから三十分。子供の事だから大して奥までは入らないと思いたいが、実際の所は分からない。何せ、好奇心旺盛な時分なのだ。 「俺はこのまま森に入って子供と魔物、両方を探すから分団長にこの事を知らせて」  同様している亭主に指示を飛ばすと暫し動揺していた亭主は奥様にぴしゃりと背中を叩かれて矢の様に飛んで行った。  俺はそれを見送ってから防御ネットの穴から森の中へと分け入っていった。左の太腿に固定されたホルスターに手をかける。銃の持ち手の冷たい感触がひやりと皮膚を通して伝わった。右手は腰のベルトに通された片手剣を握る。この町に配属されて初めて、俺は剣を鞘から抜き放った。  自然の森は草や枝が視界と足場の自由を奪う。膝丈の草が足に絡みついて来る。革のブーツで来た事を本当に後悔する様な道とも言えない自然の森を行く。俺が歩く音が木々の狭間に反響して行く。森の息吹とでも表せばいいのか、しん、と静まり返った森に流れる空気は凛と張りつめている。耳に纏わりつくのは自分の緊張した鼓動と足音だけだ。 「おーい」  呼びかけてみれば、子供ならば聞きつけるかもしれない。日が傾いでいる所為で視界は酷く悪かった。幾度か同じ様に呼びかけてみるが、呼び声は空虚に響くばかりだ。  不幸な事に少年時代を自然と無縁の場所で過ごした俺にはこの森が普通の森なのか異常な森なのか全く判別がつかなかったのだが、森とはこんなにも空気が張り詰めているものなのだろうか?まるでこれは禁足地になっている聖域を無断で暴いているかの様なそんな気分になってくる。俺の乏しい人生経験で言うならば、遅刻をした教室に入る様な気まずさを、いや、それ以上に『開けてはいけない禁断の箱を開けようとしている』様な気持ちを覚えざるを得なかった。  ここは、ここは本当にローダイトの森だろうか。この半年で見慣れてしまった、時には狩人が入り、獲物を獲って来るあの森だろうか?じっとりと汗が額に滲む。動きにくさや子供を見つけられない焦燥感からくる物ではない。こういう時に働く俺の直感は、嫌な事によく当たるのだ。  この森は人が足を踏み入れていい場所ではない。  この森に漂う異様な気配に、俺は圧倒されていた。 「誰かいないか」  叫んでみても木霊するのは俺の声だけだった。振り向けば入ってきた場所はとうに見えなくなっていた。進むか否か。分団長たちが来るまで探し続けるか、合流出来そうな場所を探すか。立ち止まって思案した俺の耳に、それは突然に飛び込んできた。  足音。  俺の物が木霊しているのではない。そして魔物猪の物にしては、軽すぎる。  間違いなく人の物。でも一人だ。  もしや逸れたのだろうか。思いながら、俺は足音の方向へと歩を進めた。下草が足を取る。まるでそれ以上俺を進ませないかの様に。 「誰かいるのか…?」  茂みを掻き分けた先に、俺はそれを見た。  白銀の長い髪。  こんな森の中には似つかわしくない、流れるような白銀の髪が俺の目の前でちらりと揺れた。腰の水色のリボン。不思議な、それこそビデオゲームかファンタジー小説の中の人物かの様な装束の少女が森の中に居た。  手には丸い金属製の大きな輪が二つ握られている。確か、チャクラムとかいう武器の筈だ。少女の装束と良い珍しい白銀の髪と良い、それはまるで天使の輪の様に思えた。  予想だにしていない少女の登場に俺は暫く茫然としていた。少女はその間に木漏れ日の中で振り返る。傾いだ陽の中、黄昏色に輝いた少女の髪が、天使の輪が、ちかりと瞬いた。 「貴方は誰?森の隣の町の人?」  白銀の少女が声を紡ぐ。零れた声はまるで小鳥の囀りの様に可憐だ。しかしその中にほんの少しの違和感を覚える。  違和感。俺ははっとなった。こんな、魔物がうろつく森に一人きり。武器すら携えた異装の少女。いったい何者なのだろうか。俺は解きかけた緊張をもう一度張りなおすと、少女に気付かれぬ様に剣を握る手に力を込めた。 「俺はジャール皇国司法騎士団、ローダイト分団所属の司法騎士。シミオン・アップルヤードだ。お前は」  こちらが身分を明かすと、少女は目を細めて「司法騎士団」と呟いた。 「この国の治安を守る人よね、大丈夫よ。私はこの国に害を為す気はないわ。それよりも、この奥へは行ってはいけないわ」  少女はそれだけを言い残すと再び俺から視線を外して森の奥へと行こうとした。 「待て、この森には今魔物がうろついてる。第一、お前は何者だ。騎士としてお前を見逃すわけにはいかない」  銃をホルスターから抜いて真っ直ぐに少女に向けて構える。少女は再び視線だけをこちらに向けて、そして茂みの向こうに消えていった。俺は銃を構えたまま、撃つ事も出来ずにただ見送るしかなかった。足も手も動かない。思考だけがぐるぐると巡り巡る。今のは一体何だ?あの少女は一体何者なんだ?揺れる茂みを見つめながら、俺は何も出来ずにただ立っていた。  司法騎士団が魔物退治も行うとしても、限度がある。町を中心として徒歩半日の範囲が関の山だ。それ以降の場所は魔物が蔓延る魔境である。列車や車を利用しない徒歩での旅など、今の時代余程の事が無い限り行わない。それこそ犯罪者、ならず者、何かに追われる者。そんな連中だけが公共交通機関を使用しないで旅をする。そういった連中の中にはあの少女の様に武器を携えている人間もいるが、まさか彼女がそんな連中の一角なのか。  彼女は一体。追わなければ。保護をするにも尋問するにも、このまま見過ごすわけにはいかない。子供たちの行方も気になるが。 「おい、シミオン」  銃をホルスターに戻して一息ついた時、背後から壮年の男の声がした。鞘に納めたままの両手剣を肩に担いだ分団長が、頭を掻き掻きやって来た。 「見つかったか、イノシシは。ガキは全員見付けて保護したぞ」  分団長の言葉に俺は今出会った少女の事を何と報告するべきなのか迷い、それから「まだです」とだけ呟いた。 「奴さん、夜になんないと出てこねぇかもな。いったん戻るか」 「いえ…まだ探します」  踵を返そうとした分団長に告げると、俺は不思議な少女の進んだ方向に足を向けた。突然やる気を出したように見えたのか、それとも俺の様子に異様さを感じたのか分団長が目を不審そうに細めながら「シミオン?」と俺を呼び掛ける。  しかし俺はそれを無視して少女消えた方向へと走り出した。背後で分団長の声がする。俺はそれを敢えて無視して森の木々と下草を剣で掻き分けながら少女を追い始めた。  草の青臭い匂いがどんどん濃くなっていく。空気に満ちた冷涼な気配が増した。足元は相変わらず悪かったが、少女が一度進んだ道であるが為か微かに草が踏みしめられて道が出来ている。  風の匂いが変わる。森特有の草の匂いから何か、そう、水の匂いへと。  唐突に目の前が開けた。気温がぐっと下がったように感じる。先ほどまでは肌寒い、程度だった空気がまるで刺す様な冷たさを以って肌が露出している部分を襲った。  目の前には大きな水溜まりが広がっていた。いや、それは泉だった。  黄昏の、赤い夕陽を反射して光る泉。その畔に少女は蹲っていた。  俺は思わず泉の畔に立つ木の陰に身を潜めて少女の様子を窺った。何処までも透明な泉の中に、彼女は手を差し入れる。あまりにも透明なその泉は、まるで嘗て巫女が神の神託を受ける為に使った水鏡のようで。彼女は差し詰め神託を賜る巫女か何かのように、それはとても神聖な儀式がそこで執り行われているかのように錯覚を起こさせる。  少女の白魚のように白く美しい指先が彼女の胸で光る青い石のブローチをなぞった。  そして少女の口が微かに動く。  奇跡が起きた。  彼女の零した言葉に鳴動するかのように泉中心からジワリと光が広がっていく。それは最初は唯、夕暮れを反射しているだけのように見えたが、それで終わりにならなかった。ちかりちかりと青白い光が広がり、強くなり、そして泉そのものが光り始めたのだ。 「なんだ、これ」  木の陰から覗いていた俺は、目の前で起きたまるで魔法の様な光景に目を奪われていた。少女の横顔が青白い燐光に照らされる。泉の光を伏し目がちに覗いていた紫色の瞳が一度伏せられて、それから意を決したように手を泉に伸ばした。 「ぐるぅる…」  闖入者に気付いたのは俺の方が早かった。魔物猪が泉の光に誘われたのか、その異貌を木々の間から現した。魔物猪はまるでその光を本能的に『危険な物』と判断したのか、光の発生源たる少女に殺意を向ける。  少女が殺意に気付いた時には俺は木の間から飛び出し、魔物猪に向かって銃を構えた。 「伏せろっ」  短く叫んだ後にトリガーを引く。銃に組み込まれた雷晶石の内部で雷力が発光し、銃口から紫の光弾が飛び出した。真っ直ぐに雷力光は熱線となって魔物猪の身体を貫く。魔物猪の巨躯が傾いで少女へと倒れこむ。俺は迷わず地面を蹴って、それから少女を抱えて飛んだ。飛んだ先は、青白い光を放つ、泉で。  水面が迫る。俺は目をぎゅうと閉じて、衝撃に備えた。  冷たい水を割って少女と共に泉へと落ちる。見た目だけでは分からなかったが相当に深いらしい。底に着かない。  上に上がろうとして水中で目を開いて後悔した。  目の前にはただ光だけが。  そう、光だけが渦巻いている。  そこは水の中などでは無かった。光だ。光の中だ。目を灼くような眩い光の中で、俺は息をする事も目を閉じる事も忘れて。  光の中で真っ白に頭を塗りつぶされる。  プツンと何もなくなった。
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