第一章 雨に沈む世界

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第一章 雨に沈む世界

 雨が降っている。  俺はそれを小さな酒場兼宿屋の中から眺めていた。じろじろと不躾な視線を送られているが、それを気にしている余裕は俺にはない。  俺の真向かいには白銀の髪を青いヘアバンドで留めている美少女が同じように窓の外を眺めている。目を覚ました草原から宿が一つしかない村に来るまでの間に交わした短い会話で、彼女の名前がクラリッサであることだけは知った。 「なあ、目立ってないか?」  そうクラリッサに尋ねると、彼女は俺の格好をつぶさに観察し、それからため息をついて「その格好のせいじゃないかしら」と言った。  周りを見渡すと、クラリッサが身に着けているようなファンタジー風の布の服を着ているものばかりで、俺のように司法騎士のコートやベストを着こんでいる人間はいない。そもそも、この村に着いてからというもの司法騎士を見ていない。どんな田舎の村であっても皇国内の村であれば司法騎士の詰め所があり、一人、ないしは二人の司法騎士が詰めているのが基本だ。それが、この村にはいない。  理由をクラリッサに尋ねると、彼女は眉を顰めて「それをこれから説明するわ」とだけ返してさっさと宿に向かってしまった。そして慌てて付いてきた俺の目の前で、俺の知らぬ貨幣を取り出してさっさと宿を二部屋取ってしまう。  雨に降られ続けるのは困ってしまうので宿を取れたのは幸いだが、それにしてもあの貨幣といい村の様子といい、まるで何が何やら見当もつかない。唯一の救いは言葉が通じることと宿帳を見る限り文字も俺が知る文字であることだけだろう。  泉に落ちたら雨の草原に寝転んでいて、周りの様子は一つも分からない。  そんな中で唯一の救いとなってくれそうな少女はいまだ口を噤んだままだ。 「あのさ」  声を掛けるとクラリッサはちらりと横目で俺を窺った後「何かしら、司法騎士様」と言い、ようやくこちらに顔を向けた。 「ここはローダイトから遠いのか? あの泉は……」 「待って頂戴、どこから説明をするべきか今悩んでいるの」 「あ、そう」  少女の制止を聞いて俺は肩を落とした。そこへ宿の女将と思しき人物が湯気の立つ皿を持って現れる。 「そら、ここいらメオジオ地方特産のスパイスをふんだんに使ったスパイス鶏の煮込みだよ! たんとお食べ!」  言ってテーブルに置かれたのは赤い芳しい香りを漂わせた鶏肉のぶつ切りの煮込みだ。よかった。食べ物も俺の常識の範囲を超えてはいないようだ。  平たいパンのような物を一緒に机に並べつつ、女将さんは俺の姿を改めてまじまじと見て「見かけない服装だねぇ」と呟いた。 「もしかして王都からでも来たのかい? それならハイカラな格好をしててもおかしかないね」 「いや、俺はローダイトから……」 「私たち、ルティガンから来たんです」  俺の言葉を遮ってクラリッサは俺の知らない地名を口にした。すると、女将さんは目を丸くして「あんな辺境からかい」と驚いた。 「いやだ、ルティガンといえば『幽世送り』がされてる場所でしょ? もう何年もされてないって聞くけどねぇ」  ――幽世。  確かその言葉はクラリッサが俺に対して使った言葉だ。目を見張ってクラリッサの顔を見ると目だけで「話を合わせろ」と、釘を刺された気がした。  下手なことを言うとボロが出そうだ。俺は黙る事にした。 「私も実際には見たことないんですよ」 「そりゃあお嬢ちゃん、幽世なんかに関わるもんじゃないよ。死者に連れ去られちまうからね」  はーやだやだ。と言いながら、女将さんはクラリッサに「アラヤダ、別にルティガンが悪い土地ってわけじゃないのにねぇ」と謝ってから台所へと戻っていった。クラリッサはその後姿を少しだけ悲しそうに見つめながら、フォークに手を伸ばした。  同じく俺も少しの気まずさを感じながらフォークを煮込まれた鶏肉に突き刺す。ホロホロと崩れるくらいに煮込まれた鶏肉を、薄いパンに包んで口に運ぶ。最初こそピリリとした辛さが舌と鼻に抜けるが、ジワリとその後に旨さが詰まったスープが口に広がる。 「旨いっ」  その旨さに驚いてそう口にすると、目の前の少女は何事かと驚いたのちにくすくすと笑った。 「シミオンさんのお口にも合ったならよかった」  それは初めて見る少女の年相応の笑顔だった。それに緊張がほぐれて俺もかすかに笑った。     「シミオンさんも薄々感じていたかもしれないけれども、ここは貴方が生まれ育った『ソア・トゥルド』とは別の世界よ。名前は『エギル・ラーン』と呼ばれているわ」  食事を終えたのち、彼女は真剣な目をして話し始めた。 「私たちが落ちたあの泉は二つの世界を繋ぐ橋……のような物のようなの」 「そのせいで俺は異世界に来てしまった、ってことか?」  にわかには信じられないが、先ほどの女将さんの言っていたメオジオ地方もルティガンも、ましてや王都にも俺は覚えがない。俺の知っている『ソア・トゥルド』はジャール皇国が統一統治をしている。その中に王国と呼ばれる別の国は存在しないのだ。  もしこの世界が異世界ならばいくつか腑に落ちる点がある。司法騎士の不在と文化の違いだ。クラリッサのようなファンタジー世界の住民が来ているような不思議な、どことなく民族的な衣装を他の住民も纏っていることに納得がいく。  しかし、本当に異世界なんてものがあるのか?それよりも何よりも。 「もしここが異世界だったとして、どうして君はこの世界の事に詳しいんだ?」  訊ねれば少女は少しばつの悪そうな顔をしてから、意を決したように口を開いた。 「私がこの『エギル・ラーン』の人間だから」  その答えは予想の範疇にあった。それゆえに俺はさらに質問を続けた。 「ならどうして君は『ソア・トゥルド』にいたんだ?」  彼女はぎゅっと手を膝の上で握りしめて、それから息を吐いて、か細い声で、言った。 「こちら側にも、あの泉のように『エギル・ラーン』から『ソア・トゥルド』へ向かう泉があるの。私はそれに落ちて……」  そこから先は言葉にならなかった。  彼女の事を思うと胸が痛んだ。この世界から彼女は何も知らないまま『ソア・トゥルド』に一人で投げ出されてしまったのだ。俺はたまたまクラリッサとともに落ちたからいいものの、もし一人でこの世界に降り立っていたらどうなっていたか分からない。  クラリッサは、どうしようもなく孤独だったのだ。 「ごめんなさい」  クラリッサが震える声で言うので、何事かと思って我に返ると、彼女は胸の前で手を組んで不安げな視線をテーブルに落としていた。 「私が帰るために泉を『開いて』、貴方を巻き込んでしまったわ」  気にするな、と言いたかったがそれが彼女にとって気休めにしかならないことがなんとなくわかった。俺はなんと言葉をかけるべきか迷ったのちに頭をかいて言葉を発した。。 「あ、でも。こっちにもあるんだろ? 『ソア・トゥルド』へ続く泉が。そこに案内してもらえば帰れるんだろう?」 「……ええ、そうね。ルティガンに行けば、貴方を元の世界に戻す事が出来るわ。そこは安心してほしい」  少女の言葉に胸を撫で下ろし、それから努めて明るい声を上げた。 「なら気にするなよ! そりゃあ異世界に飛ばされるなんて小説の話かと思ったけど……戻れるって言うなら行ってみるのが先だと思うしな」  俺の言葉に安心したのかクラリッサは「シミオンさん……」と俺の名前を呼んだ。 「さっきから気になってたんだけど、クラリッサって何歳なんだ?」 「え……? えっと、十九歳、だけれども?」 「なんだ、同い年じゃないか。ならそのシミオンさんってのはやめてくれよ。シミオンでいいぜ」  少女、というのも同い年には不適当か。クラリッサは目を見開いてから口元に手を当ててくすくすと笑った。 「じゃあそうするわ、これからよろしくね、シミオン」 「ああ、こちらこそ。案内よろしくな、クラリッサ」  握手を求めて手を差し出すと、クラリッサは俺の手を握った。白い、細い指の柔らかな感触が俺の手に残った。  それからしばらくは『エギル・ラーン』の事について訊ねていったが、二人とも雨の中を数時間は歩いたせいなのかすぐに眠くなってしまったために解散することになった。 「おやすみなさい、明日からも雨の中だから、ゆっくり寝てね」  どうして天気が分かるのだろう、と不思議に思いつつも眠気に負けた俺は部屋へと引っ込んで、コートとベストを椅子に掛けてベッドに転がった。 「(ああ、そう言えば『幽世』って何の事なのか聞き忘れたなぁ……)」  重い瞼に抗いながら、小綺麗に掃除をされた天井を仰ぎ見る。しかしそれも数秒ともたないで目を閉じた。 「(まぁ、明日にでも聞けばいいか……)」  そこで俺の意識は遠退いていった。    
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