第一章 雨に沈む世界

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 朝食のいい匂いで目を覚ました俺が確認したのは天気だった。昨日は晴天からざあざあと雨が降っていたが、今日はどうだろうと窓に目を向けるとそこにはまたもや不思議な光景が広がっていた。  晴天だ。快晴の、雲一つないそら。そこから雨が降っている。慌ててベストだけをひっつかんで着こむと部屋を出て隣のクラリッサの部屋の戸を叩いた。  彼女はすでに支度が出来ていたようで、戸を開けると慌てた様子の俺の顔を見て首を傾げた。 「どうかしたの?」 「天気がおかしいんだ、どうなってるんだ?」  窓を指さすとクラリッサは目を丸くしてから気が付いたように「ああ」と一言呻いて「説明をし忘れていたわ」と言った。 「あのね、シミオン。この世界は降りやまない雨がもう数千年にもわたって降り続いているの」 「雨が数千年も?」 「ええ、そうなの。豪雨には決してならないけれど、どんなに晴れた日でも、しとしとと雨が降るのよ」  今日みたいにね、とクラリッサは言った。呆然とするクラリッサは俺を置いてさっさと部屋を出て「そういうものだと思わないといけないのよ」とだけ言い残して階下へと降りて行った。  俺もそれに倣って階下に降りると、昨日の女将さんが昨日の席へと座るクラリッサに声を掛けているところだった。 「お兄さんもおはようさん。今朝食出すから待っててね」  と言って女将さんは受付で舟を漕ぐご主人に活を入れてから引っ込んでいった。 「雨ばかりだと……洪水なんかは起こらないのか?」 「起こるわ。水害は日常茶飯事。だからいつまでも同じところに住み続けることは難しいの。すぐ水没してしまうから」 「それは……大変だな」  それしかいう事が出来なかった。温暖で特別な災害に見舞われた事のないヴェルクリマで生まれ育った俺には、この世界で生きる事がどれほど大変な事なのかがいまいち分からない。それが歯がゆい。 「アラヤダ、どうしたんだよそんな暗い顔をして」  差し出された皿に盛られた目玉焼きとパンに意識を引き戻される。温かいスープもついて、宿の規模にしては豪華な朝食だ。 「きっとお腹が減ってたんです。ね、シミオン?」 「おい、そうじゃない……けど……旨そうだ」 「若いんだからたんとお食べ。どこに行くのか知らないけどね、近いうちに宿がある村に辿り着けるなんて保証はないんだからね」  そう言って女将さんが俺の背中を力強く叩くので、俺は思わず咳き込み、クラリッサは笑うのであった。  女将さんと他愛もない話をしながら朝食を済ませてしまうと、部屋に戻って身支度をする。コートを着て腰のベルトに剣と銃のホルスターを装備して窓を鏡代わりにして整える。  それから部屋を出てクラリッサの部屋を訪れるが、彼女はすでに部屋を後にしているらしかった。  どこへ行ったのだろうと思って階下に降りるとなめした皮を使って作られた簡素な皮袋に保存食らしい干し肉、パン、それから水筒を詰める女将さんと傍で代金を支払っているクラリッサに出くわした。先に降りたのは旅の支度を整えるためだったのだ。 「この木の実はサービスしといてあげるよ。若いんだからちょっとぐらい食べ過ぎるくらいがちょうどいいってもんさね」 「ありがとうございます」  そう言って何枚かの硬貨を女将さんに渡すと、クラリッサはその皮袋を持とうとしていた。さすがに持たせるわけにはいかないと思ってそれを横から持ち上げてひょいと担ぐと「行こうか」とクラリッサに声を掛ける。彼女は少し申し訳なさそうな顔をしながらも「ありがとう」と告げる。  ずしりとした重さを肩に感じながら、女将さんに感謝を述べて宿を出た。雨がしとしとと降っているが、村の人々は誰一人として傘もさしていなければ雨合羽を着ている様子もない。  彼らにとって本当に雨が日常的なものなのだと知らしめられて、改めて息をのんだ。 「今日の雨は暖かいわ。よかったわね、シミオン」  そう挿ってクラリッサは水はけが悪いであろう道に足を踏み出した。俺も倣って雨の中に身を置けば、なるほど冷たさはない。クラリッサはきょろきょろと辺りを見渡してから「あっちよ」と一点を指さした。そこには小高い山がそびえている。 「私たちが目指しているルティガンがあるのはあっちの方向なの。さっきおかみさんに聞いておいたわ」 「そつがないな……」 「しっかり者だって言って」  軽くクラリッサに脇を小突かれて呻いた。  不思議と雨に濡れているのに濡れている感触は少なく、ほとんどの水分がすぐに乾いてしまうような気すらした。そんな不思議な世界での旅の第一歩を、俺は今、ついに歩みだしたのである。
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