第一章 幽霊司書の友情論

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 それでも課題の提出期限は待ってくれない。  気を取り戻してページをめくっているうちに、翻訳された文章に少しずつ目が慣れてくる。  ――――だがそれでも私は我々の友情の思い出を常に心の糧とし、かくて私の生涯が幸福であったと思えるのは全くスキピオと生を共にし得たお蔭であって、その人と公私の心遣いもわかちあい、住居も軍隊の勤務も一緒にし、また友情のあらゆる働きの源であるところのもの、即ち彼と主義や仕事や意見に()いての完全な一致を保って来たのである。 (『友情について』キケロ著 岩波書店) 「…………」    読んでいて微妙に気になるのは、所々で唐突に出てくる「スキピオ」という物だった。  おそらくタイトルからして「私」の友達だろうけど、スキピオも「私」も一体どんな人物なのか全く掴めない。  哲学書だから当たり前なのだが、ストーリーがない。だからすがすがしいほど感情移入が出来ない。  かろうじて分かったのは「私」が友情をやけに神聖視していること、「私」とスキピオが気の合う友人同士だろうということくらいだ。  しかし根気強く読み進めてゆくうちに、小論文に仕えそうなフレーズがちらほらと出てくる。  せっせと原稿用紙のマス目を埋めてゆく最中、とある一文に目が止まった。 ――――我々は生まれつきがすべてお互いの間に、近づけば近づくほど深さを増すようなある協和性を有している、と私には明らかに思われるのだ。 ――――かくの如きにして同国人が外来者よりも、近親者が他人よりも重んぜられるというのは、これ等の場合には天性そのものが自ら友情を醸し出すからであるが、その友情は未だなお充分な堅貫性を持っていない。 ――――何故ならば近親者からは好意(ある心づくし、親切)というものを除き得るが、友情からはこれを取り除くことは不可能であるというこの点おいて、友情は近親関係に優るものだ。  完全に意味が理解できたわけではない。  おそらくキケローは近親者から好意を取り除くことは出来るけれど、友情から好意を取り除くことが出来ないと言いたいのだ。  その主張は、少しだけ腑に落ちた。  家族の間には好意がなくても、血がつながっていることに変わりはないから、相手を恨んでいても憎んでいても「近親者」という関係は消えない。  消えないからこそしがらみは残るし、完全に縁を切ることは難しい。  しかし友人同士はといえば、友情から好意を取り除けば両者は単にいがみ合う他人同士にでしかない。  きっと縁も簡単に切れてしまうだろう。相手に関わらなければいいだけの話なのだから。  互いの好意を無くして、友情は成り立たない。  相手への気遣い、心づくし、親切。それこそが友情を成り立たせる本質だと、この古代ローマ時代の哲学者は語る。  苦い味が舌の上に広がってゆくのを感じた。  そんなの、綺麗ごとだ。おめでたい性善説だ  しかしページをめくってゆくと、友情の本質が真心だという一方で、「私」は「友情が実益を追うのではなく、実益が友情を追う」とも語っていた。  実益、という言葉は妙にリアルで、実際その通りだと感じた。  一緒にいると都合がいいから。頼り合えるから。  誰かと群れれば心細さを誤魔化せるから。  単なる利害の一致を、耳障りのいい言葉で飾り立てているだけ。  教室でひそひそと悪口を言い合って笑う子たちも、休み時間も、トイレまでべったりと連れ添って歩く子たちも。   半年前、私をどん底に叩き落した前の学校の子たちも。  友情。  そんなものが本当に尊いものなら、私がこの学園に転校することは無かったはずだ。  友達という言葉を聞くたび、私はどうしても「あの子」を思い出してしまう。  あの子のことを、私はこの世で一番の親友だと思っていた。  小学生の時から、何をするにも彼女と一緒だった。塾も部活も、休日も。 お菓子作り、本、テレビ、ゲーム……お互いに趣味が似て、好きなものが同じだから気が合った。難関だと散々言われた私立の中学受験だって、彼女と一緒に勉強したから乗り切れた。  高校に行っても大学に進んでも、社会人になってもきっと一緒にいるのだと、疑いもせず信じていた。  けれど結局、そう思っていたのは私だけだった。  親友だと思っていた彼女は、ぬぐいようのない嘘をついて私を陥れた。  それは彼女の故意からではなく、クラス子たちが彼女に嘘の密告をするよう強要されたからだった本人から打ち明けられたのは、私がこの学園に転校すると決まった後のことだった。
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