恋する損益分岐点ーシェルブールの雨傘ー

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恋する損益分岐点ーシェルブールの雨傘ー

「あー疲れた」  仕事帰り、細く雨の降るアスファルトの道を歩いていく。  駅の改札を出ていく人々は、ピンク、青、透明とそれぞれの色の傘をさして、まるで開いた紫陽花のような六月の夜。  しとしとと静かに、それでいていつまでも続くような雨は、着ているスーツもじっとりと湿らすようだ。  残業の後の重い足取りで、俺はネクタイを緩めた。  駅からほど近い白いマンションを見上げれば、その窓にはオレンジの灯り。 「良次」  そこに彼がいる、という喜び。  パッと心が明るくなって、帰る家に愛しい人がいる嬉しさに、仕事の疲れも和らいでいく。  家へのカウントダウン――三、二、一!  エレベーターを出て、三階の廊下を大きくジャンプして、ガチャガチャと鍵を開けるのももどかしく、玄関のドアを大きく開けた。 「あれ?」  部屋の電気はついているものの、俺が帰宅すれば、ひょいと白い小さな顔を出すか、ダイニングテーブルに座って待っていてくれる笑顔が、今夜はなかった。 「ただいまー、良次」  どこからも返事がない。 「トイレ?風呂?」  鞄と上着を朴り出して、ぐるりと見回ってみたけれど、誰もいない。 「えっ?」  俺は、左手の薬指にはめたリングを、指先で撫でた。  それは俺と良次のペアリングで、ずっと一緒にいようっていう願いを込めて用意したもの。  本当はこの前に、俺の父ちゃんと母ちゃんに、良次を連れて挨拶にいって、認めてもらって良次に贈るつもりだった。  けど、その挨拶は、俺の準備不足のせいで散々な結果になった。 良次を傷つけてしまったと、ずっと気になっている。  良次は言う。 「男同士で結婚なんて、現代日本じゃ法的にもない。夢もいい加減にしろ」  良次は現実主義だけど、それでも、リングを渡した時は喜んでくれていた。  ずっと一緒にいたい、二人でいるんだって誓いを、何か形にしたいって難しいことなんだろうか?  同性だからって、皆に認めてもらったり、祝ってもらったり、そんなことも出来ないんだろうか?  愛し合っていて、ずっと人生を共にしたくて。  ただ同性だからというだけで、そうして結婚する男女と何が違うんだろう? 「まさか、出て行ってないだろうなッ?」  俺の実家では、母ちゃんがパニックになって、ずいぶんと良次を責めた。  良次は冷静に対応して、さらには俺を慰めてくれてたけど、本心がどうだったかちゃんと聞けていない。  俺が一目惚れして、ずっと口説いて付き合えた、五歳年上の愛しい恋人。 「良次!」  俺はバタバタと歩き回って、最後にベッドルームのドアを勢いよく、バン!と開けた。 「りょうじー……」  俺はへなへなと床に膝をついた。  そこには、ダブルベッドの上でうつぶせになって、スマホを夢中になって見ている細い姿があった。  もう三十歳を越えているのに、すらりと細身で、色白のきめの細かい肌は、出会った二十八歳の時の印象のまま。  良次がスマホに夢中になっているなんて珍しい。 「あ、帰ってたんだ?」  良次は首をひねって、二重瞼の大きな瞳で、俺に初めて気付いたみたいに見た。  いつもは綺麗に横に流されている前髪は、風呂上がりのせいか無造作で、半袖のパジャマを着た姿は、会社でのキリッとしたスーツ姿と違って、気が抜けていて可愛い。 「もー、いないかと思ったじゃん」 「こんな夜にどこに行くんだよ」  ベッドサイドの時計は二十三時を指している。  良次は、呆れ気味に起き上がって、笑った。 「おかえり。残業お疲れさま」 「ただいまー。あっ、なんで外してんだよっ?」  俺は、ベッドサイドのローテーブルに置かれたリングに駆け寄って、思わず手でつかんだ。  それはチェーンに通されていて、首にかけられるようにしてある。
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