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「池澤くん!」
自分の名前を呼ぶ声に振り返ったら、美玲が改札を通ろうとして、ICカードの残高不足で改札機に足止めを食らった瞬間だった。バタムッ、という慈悲の欠片もない音がして、扉が閉まる。あっ、あ、ちょっと待っててごめん! と慌てて、美玲は改札機の近くにある精算機で残高をチャージして、今度は止められることなく、改札をくぐって僕のところへ駆けてきた。
「ごめんなさい! 大遅刻」
「いや、それは構わないんだけど……何かあったの」
「あぁ……まあ」
走ってきたからなのか、恥じらいのせいなのか、美玲の頬は上気して朱に染まっている。この間はそれなりに飲んでいたはずなのに、顔色ひとつ変えずにケロリとしていた子と同一人物だとは思えない。
さっきの雨の降りはじめの様子と同じように、ぽつぽつと美玲は言葉をこぼしはじめた。
「……出がけに、雨が降ってきましてね」
「うん」
「傘持ってなかったんで、取りに戻って。電車に乗ったら、うっかり普段出勤する方面の電車に乗っちゃって。しかもわたし、そのことに職場の最寄りの二駅前くらいで気づいて」
確かに、美玲が働いているのはそっち方面にある会社だと言っていた。
続きを促してみる。
「それで」
「で、すぐに降りて、反対方面の電車に乗って。ごめんなさい遅れちゃう……って連絡をしようと思って鞄の中身を見たら」
「携帯を家に忘れたことに気づいた?」
「そう!」
一度、人差し指をぴんとやって美玲は笑ったが、すぐにその笑みをひっこめ、しょげた表情に変わった。
「ごめんなさい……初めてこうやって出かけるのに、わたしってそそっかしくて」
「いいよ、いいよ。何かあったんじゃないかと思ってたから、安心した」
「もー、本当、ばかだわたし。……あっ、あの本屋さん、カフェもくっついてるから、何か御馳走させてね」
「気にしない、気にしない。それじゃあさっそく行こう」
一歩踏み出しかけて、はっと気がついたことがあって、足を止めた。美玲が半歩後ろで「どうしたの?」と訊いてくる。
「ちょっとそこのコンビニ寄っていいかな」
僕はさっきまでアンニュイな気持ちで見つめていたコンビニの方を指差した。美玲は首を傾げる。
「何か買うものが?」
「いや、傘、持ってないから」
「なあんだ、そういうことか」
ぴょん、と隣へ歩み出てきた美玲は、すっと手にしているものをかざしてきた。
ビニール傘だ。
僕が美玲と傘の間で視線を行き来させると、美玲は効果音が聞こえてきそうなくらいに、にっこりと笑ってみせた。
「わたしの傘、入っていく? というか、入ってよ」
「いや、でも」
「いいから、いいから」
言いさま、すたすたと美玲は出口の自動ドアをくぐっていってしまった。急ぎ足で追いかけて外に出ると、美玲はもう傘を広げて、僕を待っていた。
「どうぞ。……待たせちゃったんだし、これくらいのこと、させてほしい」
これはいわゆる相合傘というやつになるわけだが、いいのだろうか。
そうは思いながらも、僕らは二人でひとつの傘に入り、一歩踏み出す。雨が傘を打つ音が聞こえてくる。そのリズムは、緊張ででたらめな鼓動を打ち始めた僕の心音のようにも思えた。
ここから始まるなんとやら、というのがこの先にあるのかどうかはわからないが、それはこの空模様が一時間後に晴れになるのか雨のままなのか……ということと同じくらい、考えても仕方のないことだと僕は悟った。女性の心も空模様の移り変わりも、きっと似たようなものだし。
肩が触れるか触れないかの距離を保ちながら、僕たちは三十分遅れで、駅舎を出て歩き出した。
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