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七瀬は弦助を抱いたまま自室に戻った。
机に向かい弦助をそのまま膝に乗せて座るが、気分ではなかったのか、気まぐれな若い猫はすぐに七瀬の膝の上から飛び降りるとペットドアから部屋を出て行ってしまった。フラップ式の小さな扉は弦助のために自らドアを改造し、設置したものだ。拾ってきたのは父だったが、家で仕事をしている七瀬が必然的に面倒を見ることになり、結局一番可愛がっているのだ。
仕方がない。
それに、これから取り掛かる〝仕事中〟は弦助がいない方が捗る。
以前は七瀬も会社勤めをしていたが、就職後たったの一年で辞めてしまった。
その頃の七瀬は到底ふたたび働きに出ようとは思えない状態だった。それが父に頼まれときどきこの家のことを手伝うようになり、やがて正式に〝まかないさん〟として雇われ今に至っている。そう少なくない給料を父からもらっているが、いつまでも父に甘えているわけにはいかないのだ。
*
「おお、おかえり」
恵が帰ってきたのは、夕飯のための米を研いでいるときだった。
恵は一瞬目を丸くしたあと「ただいま」と応えながらも割烹着姿の七瀬を見てニヤニヤしている。
「……何だよ」
「うん? 割烹着似合うな~って。あと、おかえりって言ってもらえるの、なんかいいよね」
「そうか?」
この家で生活をしていると〝自分以外の誰か〟がいるのは当たり前で、ただいまもおかえりも、意識をして言葉にしたことがなかった。
恵とて、女の家に転がり込んでいたというのだから、おかえりもただいまも言い合う相手がいないわけではないだろうに。違うのだろうか。
そのとき七瀬は恵が大きなスポーツバッグを肩から掛けていることに気付いた。
昨晩はほとんどその身一つでやってきたはずだ。裏ボアのパーカーではなく、暖かそうなダウンジャケットを着ているし。
七瀬の目線に気付いたのか「ああ、これ?」とバッグを軽く掲げて見せる。
「元カノの部屋行って、荷物取ってきた」
「え、荷物ってそれだけか?」
大きなバッグだが、それがすべてだと言われたら少なすぎる。
「ん-、まあ必要最低限? 服とかはほとんど彼女に買ってもらったもんだし、大体置いてきた。売るなりして適当に処分してくれるでしょ」
よくよく見ると、恵の着ているダウンはタトラスだ。
そういえば恵の元カノは社会人だと言っていたか。
それも彼女から買い与えられたものなのだろうか。いやいくら社会人とはいえ安くとも十万はするだろうジャケットを易々と買い与えるものだろうか? それでは彼氏ではなくヒモじゃないか――……と考えが至ったところで、今朝の、何ということのない朝ごはんにも大袈裟に喜んで見せた恵の笑顔を思い出す。
うーん。あり得ないことではない。
この男は相手を喜ばせる術を知っている。出会ったばかりの七瀬ですら、世話を焼いてやりたくなるのだ。妙齢の女性の母性を刺激するのはお手の物だろう。おまけにこの見た目。
七瀬の複雑な表情には気付いた様子もなく「夕飯はなぁに?」と恵は無邪気にたずねた。
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