第五話 哀しい過去を背負う者

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第五話 哀しい過去を背負う者

 天照が、目の前に座る。一瞬、伽羅の香りが広がった。その芳しい香りとは正反対に天照の表情は曇ったままだ。 「遥か昔、文献にすら残らぬ昔の話よ……この辺りは現代とは違って、険しい山もあった。山の麓にはその山の実りと自力で土地を開墾した人間達が集落を築き生活を営んでおった。山は豊かで、清涼な水の流れる川もあった。人々は穏やかに健やかに暮らしていたのだが」  ふう、と溢れたのは溜め息か。 「良くないことが起きたのですね?」  思い出したわけではなかったが、天照の言葉の続きはそれ以外に考えられなかったのだ。そのことに自分がどう関係しているのか、男には皆目見当もつかなかった。 「ある年、季節外れの長雨が続いて人々は雨止めを乞う祈祷をしたりしたものよ。それでも雨は降り続いた。清涼であった川は濁流と化し、恐怖を覚えた人間達はある者は高台に逃げ、ある者はこの地を離れようとしたが、頑丈な橋もない昔々の話。限度があった。そして、山崩……今でいう鉄砲水だな。それが起きてしまった。大半の者が命を落とし、生き残った者は悲しみと恐怖を抱えたまま三年を生きた。三年目の夏、そなたは(よわい)三つとなり、再びの災害を恐れた人間はそなたを神子として御山へ捧げることを決めたのだ」 「神の関知せぬ事象も神の行いとされ、有り体に言えばお前は人柱として生きたまま今は神社となったこの場所に埋められたのよ。七五三。七歳までは神の子だと。そして早ければ早い方が良かろうと。お前の亡骸はこの地の何処(いずこ)かにある。先刻の記憶らしきものは確かにお前の記憶よ。生贄となる前のな」 「……結局一番つらい役目はお前が背負うのだな。私が言わねばならぬことであったのに」    本当につらい役目というものがあるならば、真実を知ったこの(やしろ)の神がどうなるかだ、と常闇の神は腕を組んだままひたと見つめていた。  理不尽な過去に気が()れ憎しみに負けるならば、害のないうちに(ほふ)らねばならない。    社の神は床の木目を見据えたまま、どちらに問うでもなく言葉を落とした。 「……私が人柱となったのち、この地に災害は訪れたのでしょうか?」 「いや。そなたが御山の贄となったのち、人々は小さな祠を建てた。日々手を合わせ、時流れ小さな祠は社となり、社はこのように立派な神社となった。私は災害に関しては何もしておらぬ。あれはあくまで星の巡り。私がしたことはただ人々が手を合わせ祀るお主に神格を与えたまで」 「ああ、それで私は土地神の力ををいただけたのですね……そうですか。私の死は無駄ではなかったのですね。良かった」  良かった、と呟いた男の口元には確かに穏やかな笑みがあった。  つ、と持ち上がった目に淀みはなく、凪いだ海のような静けさが漂っていた。その(まと)う気配に常闇の神は組んでいた腕を解き、男に問いかけた。 「どうする? お前が望むなら、亡骸を探し当ててやれる」 「いえ、ありがたい御申し出なのですが、ゲン担ぎと言うのでしょうか……私の骸が埋まっているまま、それで良いと思えるのです」 「そうか。ならば要らぬ世話は焼くまい。そして天照! お前にしかできぬ仕事が残っているぞ!」 「任せよ!」 「お二方様?」  音もなく飛ぶように立ち上がった天照は、座ったままの男に意味ありげに視線を投げ、常闇の神は勢いよく戸を開くと愛しい伴侶の名を叫んだ。
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