傘の内側

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 今日も彼女の差す傘は、雨をざぁざぁ降らせている。その雨を一身に受けて、彼女の体はずぶ濡れだ。濡れない僕は傘を差しながら、そんな彼女を見つめていた。  今日も、今日とて雨は降る。梅雨のこの季節の宿命。傘はかかせないけれど、その傘が雨を降らせるとはどういう了見なのだろうか。 「この世すべての悲しみが、この傘には宿っているのよ」  僕の心を読むように、彼女は口を開いてみせる。 「だから私は、こうやって傘を開いて悲しむ人々の声に耳を傾けるの」  それは別に、君じゃなくてもいいんじゃいかと僕は思う。 「駄目よ。私はみんなを悲しませたもの」 「それも、君のせいじゃない」  カンカンカンカン。踏切の音が僕の耳朶に響き渡る。  猫をたすけようとして、踏切に進級した彼女。電車に轢かれた彼女。それを目撃したのは、僕だった。  次の日から学校はお葬式モード。みんな笑顔を忘れて、涙という名の雨を流す。えんえんと、延々と、彼女と仲の良かった子たちは泣き止むことをやめない。  そうして彼女のいなくなった春が終わって、空が涙を流す梅雨がやってくる。その梅雨の訪れとともに、彼女は僕の前に現れるようになった。 「この傘の内は地獄なの。この傘の中は悲しみで溢れてる。その悲しみ全部に耳を傾ければ、傘の中の雨はやむんだって」  くるくると傘を回しながら、彼女は自分の体も回して見せる。  くるり、くるり、と回る彼女を見て、あぁ世界はくるってると僕は思う。事故で死んだ女の子にこの世すべての悲しみをおしつけるなんて、そんな酷い話がどこにあるんだ。 「そんな傘、捨てちまえっ!」  僕は叫ぶ。彼女は驚いて僕を見る。僕はそんな彼女の手から、傘を奪って放り投げてみせた。  傘の中で降る雨が、悲しみという名の雨が、ざぁざぁと周囲にまき散らされる。それは露の雨と一緒になって、世界中に降り注ぐのだ。  くるくると傘が回りながら彼女のもとへ戻ろうとする。そんな彼女の手をとって、僕は駆けだしていた。  たんたんたんとアスファルトに響く足音と。ぱぁんぱぁんぱぁんとアスファルトに響き雨音と。そのどちらもが僕の耳朶を叩いて、彼女の怒声をかき消してくれる。  泣き声が耳に轟く。大切な人がなくなって悲しいと泣く人々の声がする。  それらが、傘の流す雨から聴こえてくるのだ。   ずっとずっと、彼女が聞いていた人々の悲しみを僕が聴いている。いや、この雨の見える範囲にいる人々は、きっとこの悲しみの声に耳を傾けている。  くるくるくくる!  傘は奇妙な音を出しながら、回って雲間から虹を駆ける空の上を駆けていくのだ。  駆ける、駆ける、僕らは駆ける。  悲しみのない場所まで、僕は彼女を連れていく。  怒る。怒る。彼女は怒る。怒りながら、彼女は笑う。  その笑い声を聴きながら、僕は自然と笑っていた。耳に聞こえる傘の悲しみの声も、楽しげな笑い声へと変わっていく。  だって、悲しんでばっかりじゃ前には進めないじゃないか。  悲しみは大切だ。でも、その悲しみにいつまでもしがみついてちゃいけないんだ。その悲しみを見て、悲しむ人がまた増える。  悲しみは、悲しみを増やしていく。  だから、悲しくても笑った方がいいことだってあるんだ。そこで悲しみの連鎖がとぎれるなら、僕はいくらでも笑ってみせよう。  彼女のために笑ってみせよう。  空が晴れる。雨が止む。そっと僕は歩を止める。 「ありがとう……」  彼女の少しだけ寂しげな声が聞こえる。そっと振り向くと、青空に溶けていく彼女と眼があった。僕は眼に涙をためながら、彼女に微笑んで見せる。  だって、彼女は十分悲しんだら、これ以上、悲しみを彼女には渡せないだろう。  だから僕は、涙を流しながら微笑むんだ。 「さようなら……」  その声と共に彼女は消えていく。 「さようなら」  そんな彼女に、僕はお別れを告げていた。
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