第二話『涙の軍艦巻き』

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第二話『涙の軍艦巻き』

 溺れたことがあるだろうか? 恋に溺れた、酒に溺れた、ギャンブルに溺れた、などといった意味ではない。純粋に水。海やプールで溺れるのオ・ボ・レ・ル・だ。  ボクは子どもの頃に1回、大人になってから2回ほど、溺れたことがある。すべて、周りにいた人が助けてくれなかったら、死んでいたであろうマジ溺れだ。  初めて溺れたのは5歳の時、お盆が近づいた8月に母の実家へ里帰りして、弟と地元の子どもたちと共に川へ遊びに行ったときだ。 「まだまだ夏は終わらない!」と太陽が息巻き、猛烈に照りつけるなか、弟と地元の子どもたちは、川に飛び込んで気持ち良さそうに遊んでいたが、泳げないボクは川の端のほうに足だけつけ、カニを探したりしながら、おとなしく遊んでいた。(カニは探すだけで捕まえない。さわるのが恐いから)  純正のシティーボーイなボクのことなどお構いなしに、山猿のごとく動き回る弟と地元の子たちは、その内、高い岩場から川の深いところへ飛び込むという、ありがちな遊びを始めた。 「イェーイ!」 〃ザバーン〃 「ヤホーイ!」 〃ザバーン〃 「ホホホーイ!」〃ザバーン〃  奇声をあげながら川へ飛び込む子どもたち。  飛び込んだ後、すぐにまた岩場に戻り再び飛び込む。楽しそうに満面の笑みを浮かべながら、何度も何度もそれを繰り返していた。  その光景を見ているうちに、 (何がそんなに楽しいのだろう?)  という疑問が浮かんできた。 (もしかしたら、メチャクチャ楽しいことなんじゃないだろうか?)  最高の笑顔を浮かべる子どもたちの顔についた水滴が、夏の日差しを反射しキラメく。  まるで、喉が渇いたときに飲み物のCMを見て、その飲みものが欲しくなるのと同じように、ボクはその光景を見て、自分もみんなと同じように飛び込んで見たくなった。  ボクは何も言わず、自分の心の中だけで覚悟を決めると、みんなの飛び込む間を縫って、“スッ”と岩場に立った。 「お、草慈くん、どうしたん?」  地元の子どもが意外そうにボクのことを見る。  カンの鋭い弟はボクの考えを察したのか? 何かを期待するように、ニヤニヤしている。 (思ったよりも高いなァ……)  下から見るのと、上から見るのでは随分違う光景に、ボクは多少しりごみした。それに気づいてなのか? 知らずになのか? 弟は、 「草慈が飛び込むぞ!」と、はやしたて、おまけに、 「10・9・8・7」  カウントダウンまで始めた。 「6・5・4・3」 (……これで飛ばなかったら、カッコ悪いな)  そんなふうに思い、ボクは覚悟を決めた。 「2・1・0」  何も言わず、大げさなアクションもなく、飛ぶというよりも、離れるといった感じで、ボクは岩場からジャンプした。  見る見る内に近づいてくる水面。  川へ落ちるまでの、ほんの一瞬の間にボクは、 (ああ、全然たのしくないや。やめとけばよかった)  と、思った。  〃ザバーン〃  川に落ちて、足がつかなくて、鼻と口に水が入ってくる。  ボクは、 (泳がなきゃ)  と思い、平泳ぎを始めたが、一向に進まず同じ場所から動けない。 「大変だ! 草慈が溺れた!!」  誰かがそう叫ぶ声が聞こえてボクは、はじめて自分が溺れているんだということに気づいた。  自分では、泳いでいるつもりだったのに、本当は溺れているということに気づくと、気持ちに余裕がなくなり、一気にアセりだした。  地元のガキ大将、『がんだ君』がボクのことを助けに向かって来てくれる姿が見えた。  〃あっぷ、あっぷ〃するボクの所まで、がんだ君が来てくれたが、溺れる人を助けるのは、こっからがムズカシイ。  がんだ君は、ボクのうでをつかんだが、うでをつかまれ自由の利かなくなったボクは、余計に不安になり、がんだ君にしがみついた。すると、がんだ君は、ミルミルうちに沈んでいってしまい、ボクら2人とも共倒れになりそうになった。 「離して、離して。草慈ゴメン、離してよ」  いつもは生意気な親分口調で話すがんだ君が、この時は必死で水面に顔を出しながら、懇願してきた。  弟は川べりで、この光景を見ながら、 「草慈が、草慈が、がんだのこと殺そうとしてる!」  と言い、爆笑していた。  普通よりも泳ぎの上手い、がんだ君が死ぬ気で頑張ってくれたおかげで、ボクらはなんとか浅瀬にたどり着き、一命をとりとめたが、この出来事がキッカケでボクと弟は、田舎から戻った後、スイミングスクールに通うことになった。  一つはボクが泳げるようになるためだが、もう一つ大きな理由として、弟があまりに奔放な性格のため、何か習い事でもさせて、常識的なモノを身につけさした方が、いいんじゃないかという、おじいちゃんの意見が影響してのことだった。  お母さんは、家から1番近いところにするか、月謝が1番安いところにするかでスクール選びを迷っていたが、結局、「送り迎えがメンドい」という理由で、ボクらだけで歩いて通える距離にある、近所の『サブマリン』というスクールを選んだ。  泳げない上に、ついこの前、溺れたばかりのボクは、海だろうが川だろうがプールだろうが、そんなものには、もう二度と入りたくなく、スイミングスクールに通うことを拒んだが、お母さんと、「新しい友達とプールで遊ぶ」という感覚しかない弟に引っ張られて渋々スクールへ行く羽目になった。  スクールが使用しているプールの施設は、なんの変哲もない地味なものだったが、コーチは個性的な人で、 「アラ、よくきてくれたわねぇ。私の名前は『ノボル』よ、よろしくね」  と、オカマ口調で喋り、原色のブーメランパンツを穿いていた。自己紹介も終わらぬうちに、弟は勝手に服を脱いで、 「ヤッホーイ!」  とスッ裸でプールに飛び込んだ。  水をバシャバシャ飛び散らせながら、デタラメなフォームで泳ぐ弟のことを、お母さんかコーチのどちらかが注意すると思ったが、2人とも逆に、 「あの子は、元気だけが取り柄で」  とか、 「なかなかいい運動神経をお持ちのようね。コレは結構見込みあるかも」  などと好意的なことを言い出した。「類は友を呼ぶ」という言葉があるが、弟もお母さんもコーチも、独特の人間同士、理解しあえるモノがあったのだろうか?  コーチはおせじではなく、本当に弟に才能を感じたようで、その日は、付きっ切りで弟にだけ指導した。そのため他の生徒は自主練習と称し、好き勝手に泳いでいた。  泳げないボクが、プールサイドに座り、ぼんやりとその光景を眺めていると、となりにボクよりも1つか2つ年上のメガネを掛けた男の子が腰をおろし、話しかけてきた。 「やあ、今日新しく入ってきた子だね」  人の良さ丸出しの笑顔で話しかけてきてくれた男の子に、ボクは、今思うと「なぜあの頃の自分は、あそこまで人見知りをするのか」と、腹立たしくなるほど無愛想に、 「うん」としか、答えられなかった。 「君は泳がないのかい?」  男の子の問いに、ボクはまたしても、 「うん」とだけ答えた。  プールサイドのボクらに気づいて、このスクールのキャプテンをつとめる、イマダさんという小学6年生の人が声をかけてきた。 「おーい、2人ともコッチおいで、泳ぎ教えてあげるから」  面倒見のいいイマダさんは、コーチの代わりにボクらに泳ぎ方を教えてくれた。  プールのヘリにつかまり、バタ足の練習をしながら、増田君は、 「なんだ、君も泳げないのか。ぼくと一緒だね。でもぼくは泳げないけど、英語は喋れるんだゼ。マイ・ネーム・イズ・リョウ マスダ。ナイストゥ・ミー・チュー」  と、カタカナ発音の英語で自己紹介をしながら、握手しようと右手を差し出してきた。  ボクも手をだし、シェイクハンドすると、2人ともバランスをくずし沈んでしまった。 「おえー、おえー、ゲホゲホ。カルキを含んだ水を、鼻から吸飲してしまった」  そう言いながら、増田君はえづいた。  その日から週2日、ボクと弟はスイミングスクールに通った。運動神経のいい弟は、遊び感覚でたのしみながらも、みるみるうちに上達して、コーチは「キャー、素敵、サイコーよ。未来のオリンピック選手だわ♡」などと言い、うかれていた。  泳ぐのがオモシロくてたまらない、といった感じの弟と比べ、頑張って練習しても、なかなか上達しないボクは、若干スイミングが憂うつだった。  増田君もボクと同じで、 「ぼくは、いろんな習い事しているけど、その中でも特にスイミングに対するモチベーションが上がらないんだよ」とボヤいていた。  そのうち、ボクと増田君はプールサイドに腰掛けて2人で練習をサボる事が多くなっていた。  劣等生同士の親近感とでも言うのだろうか? 普通は30回ぐらい会ったことのある人でないと、まともに話が出来るようにならないボクだが、増田君とは5回目ぐらいから会話が出来るようになっていた。 「草慈君は、なにか他に習い事してるの?」  ボクは首をよこに振り、 「他には何もしてないよ」と答えた。 「そうか、……いいな。ぼくはエブリデイ、学校が終わった後も、習い事があって、遊ぶ時間がないんだよ」  増田君のお母さんは、ウチとは正反対の教育ママで、増田君は私立の小学校に通いながら、週に9つ習い事をしているそうだ。 「……大変だね」 「そうだね。でも、ぼくは将来、内閣総理大臣になって日本国を牽引していかなきゃならない人間だから、今のうちからガンバっとかなきゃならないんだって、マミーが言ってた」 「……ふ~ん」 「あ~ぁ、ドラえもんが本当にいたらな~、『ヒトマネロボット』出してもらって、ぼくの代わりに習い事いってもらうのにな~」 「ヒトマネロボット……?」 「2人とも、いつまでもサボってないで、泳ぐ練習しなきゃ」  イマダさんがボクらに声をかけてきた。  コーチは弟や、このサブマリンスイミングスクールのエース『トビウオ岡田』のように、才能のある人に掛かりっきりで、ボクや増田君みたいに泳ぎの苦手な子の面倒は、キャプテンのイマダさんが自主的にみていた。 「ねえ、ねえ、イマダさんはドラえもんの道具の中でなにが一番欲しい?」  増田君の幼稚な問いかけに、イマダさんは、 「う~ん、おいらはやっぱし、ヘリコプターかな。空を自由に飛びたいじゃん」  と真剣に答えてくれたので、ボクと増田君は子どもながらに気を使い、 「それを言うなら、タケコプターだろ」  とはツッコめなかった。  *  スイミングが休みの日、ボクと弟はチョークで道路に落書きをしながら遊んでいた。 「コレ何に見える?」  弟は、描いた謎の生物を指しボクに聞いてきた。 「……(?)。ゴリラ」 「ブー、お母さんでした」 「え~、全然違う、お母さん、そんなに頭トンガってないよ」  弟はイタズラっぽい笑みを浮かべた。 「んでもって、コッチが草慈」 「何でだよ! 目ん玉6つもあるじゃないか!」 「ヒーッヒヒヒヒヒッ」  なにがそんなに面白いのか? 弟は妖怪みたいな絵をボクだと言って笑った。 「ねぇねぇ、なにしてんの?」  聞き覚えのある声に振り向くと、増田君がボクらの後ろに立っていた。そのまた後ろに、増田君のマミー? らしき人が立っている。 「ぼくにも、ちょっとだけ貸してよ」  増田君は、ボクからチョークを受け取ると、サラサラサラ、と道路にドラえもんの絵を描いた。その絵が、あまりにも上手くて、ボクと弟は思わず、 「おお、スゲー」と驚嘆した。  増田君がマミーの方をチラリと見ると、マミーは、 「もう時間がないわ」と言い、増田君はつとめて明るく、 「ぼく、これから『プリンス桜井の編み物教室』に行かなくっちゃいけないから」  と立ち上がった。  マミーと並んで歩き、遠ざかって行く増田君の後ろ姿は、少し哀しげだった。不意に増田君がコチラを振り向き、その時のなんとも言いがたい、愁いを秘めた表情を、ボクは今も忘れられない。  ふと視線を足元におろすと、ドラえもんが笑っていた。  翌日、スイミングスクールに行くと、増田君が猛烈にヤル気をだしてクロールを練習していた。  今までの彼とはあまりにも違う様子をみて、コーチがイマダさんに、 「あいつ、本当に増田か?」  と確認していたほどだ。  増田君はボクのことを見つけると、プールからあがり、笑顔で、 「昨日マミーが、25メートル泳げるようになったら、1日だけ遊びまくってもいい日を作ってくれるって、言ったんだ!」  と少々興奮気味に報告してきた。 「そ、そうなの」  前のめりに話す増田君の勢いに押されて、ボクは少し身を退いて答えた。 「うん! だからぼく、頑張るよ!!」  増田君は勢いよくプールに戻ると、練習を続けた。  真面目さとヤル気というのは、なにものにも変えがたい才能のひとつで、その日の増田君は、運動神経の悪さと、不器用な面を、真面目さとヤル気でカバーするかのように一心不乱に練習に打ち込み、なんと、1日だけで25メートル泳げるようになってしまった。  今まで水に浮くことさえ出来なかった増田君が、ここまで奮闘したことに、みんな驚き、増田君のことなんか眼中になかったコーチまで、 「ブラボー、ブラボー、ブラビーシマ」  と手を叩きながら賞賛した。 *  後日、約束どおり1日休みをもらった増田君は、朝から晩までボクらと遊んだ。物心ついたときには、すでに英才教育が始まっていた増田君からしてみれば、初めての経験だったろう。  午前中、公園で走り回ったり、木に登ったり、アニメの登場人物になりきってのヒーローごっこなどをして遊んでも、まだまだ時間はある。  ボクらの家で適当に昼食をすませてから、午後はピンポンダッシュ(当時ボクらの住んでいた地域では『ピン逃げ』と呼んでいた)や、駐輪してある自転車のサドルを外すなどのイタズラをして遊んだ。  夕暮れの町中、そこらじゅうの道や塀にチョークでラクガキをして遊んでいると、どこかの家からカレーを煮込む匂いがしてきた。それをキッカケに増田君は、 「もう、そろそろ帰らなきゃ……」  と言った。その表情に陰はない。なんとなく納得したような、充実した顔だった。  ボクが、 「……じゃあね」と言うと、増田君は、 「じゃあね。また、スイミングで」と手を振った。 「増田」  基本的に誰のことでも呼びすての弟が、ポケットからチョークを3本ほど出すと、ぜんぶ増田君に渡した。 「フォー・ミー?」 「やる」 「センキュー」  増田君は始めてあったときと同じように、良い人丸出しの笑顔を浮かべた。 *  不器用な人間は、自分が出来るようになった事を大切にするものだ。増田君は、それに加え根からの真面目さも持っているため、25メートル泳げるようになった日から、熱心に水泳に取り組むようになり、いつのまにか劣等生の汚名を返上し、それどころか、スイミングスクール対抗の競泳大会に、『サブマリン』の小学2年生代表選手として選ばれる程に上達していた。  優勝を狙うレベルのキャプテン・イマダさんや、エースのトビウオ岡田と違い、参加することに意義があるといった立場だったが、それにしたって、実に立派だと思わないかい?(弟は小学生未満なので、出場資格がなかった)  大会では、イマダさんやトビウオ岡田はみんなの期待に応え、増田君もじつに良く健闘した。  後日、祝賀会と称しスクールのみんなで、食事を食べにいくというイベントがあった。  場所は駅前に新しくできた回転ずし。当時まだ目新しい存在だった回転ずしにみんなが行きたがったのと、サカナのように泳げるようになれればいいな、という意味合いを含んでのものだった。  コーチは、弟がなにをしでかすか分からないし、ボクらはまだ本当に幼かったので、出来れば保護者同伴で来てほしかったみたいだが、ボクらは放任主義というお母さんのスタイルに従い、自分たちだけで待ち合わせ場所に向かった。  ボクらが待ち合わせ場所の、スイミングスクール駐車場に着いたときには、すでにほとんどの人が来ており、後は増田君1人を残すのみとなっていた。  最後の1人の増田君がなかなか来ないので、コーチがイラつきながら電話すると、(携帯がまだ無かった頃なので、わざわざスクールの事務所まで電話しに行った)増田君は、 「いま、水戸黄門の再放送見てるんで、先にいっといてください。終わったら現地に直接むかいますんで」  と言い、一方的に電話を切ったらしい。 「もう! あんな子ほっといて先いくわよ」  ボクらは、コーチの車(欠陥車)に乗せてもらい、回転ずしに向かった。  寿司屋でほどなく増田君と合流したが、ボクは目の前をパレードする魚介類をみた途端、テンションがおかしくなってしまっていたので、増田君のこととか他のみんなのこととか、どうでもよくなっていた。おかげで、みんなが楽しくハシャグなか、1人うつむき加減で陰のある表情をしている、増田君のいつもと違う様子に気づいてあげられなかった……。  途中、リーダーが注文したミックスジュースが、異様にマズイという事があって、みんなはそれを廻し飲みしたり、匂いをかいだりして盛り上がった。 「ヘヘヘッ、クセー、このミックスくせー。増田、オメーも嗅いでみろよ」  トビウオ岡田が、うれしそうにミックスジュースの匂いを増田君に嗅がせる。 「……う、うん。なんかフレグランスがヘンだね……」  増田君が元気なくそう答えると、みんな何だか増田君の様子がオカシイ事に、ようやく気づいた。 「おい、増田。どうした? 何かあったか?」 「い、いや、べつに、何もないよ……」 「お腹イタイなら、恥ずかしがらずにトイレ行った方がいいぞ」 「ち、違うよ、お腹イタイんじゃないけど……」  増田君はお腹イタイ説を否定したが、みんなは口々に、 「誰もトイレにいったからって、冷やかしたりしないって」 「……………」 「そうよ、増田君。ウンチしておいで」 「…………」 「でも、増田君も冷たいものばっか食べすぎよ。ソフトクリーム食べた後に、かき氷まで食べるんだもん。そりゃ、お腹イタくなって当然だわ」  と『増田大便我慢説』を支持した。 「…………」  増田君は、みんなが好き勝手言うのを、おとなしく聞いていたが、みんながあんまりにも「トイレ行け」「トイレ行け」と、しつこく言うものだから、ついに感情を抑えきれなくなって、いきなり、 「ダディーとマミーが離婚するんだ!!!」  店中に聞こえる大声でそう叫んだ。  夕食時、大勢の人でにぎわう店内が、 〃シーーン〃  として、その後、 〃ウエーン、ウエーン〃  という増田君の泣き声だけが響いた。 「…………」  みんなはしばらく、どうすればいいのか思案していたが、誰かが小声で、 「何か声かけろよ」と言うと、それを聞いた弟が、 「増田は、『うまい棒』の中でなに味が1番好き?」  と、まったくデタラメな事を声かけた、生真面目で律儀な性格の増田君は泣きながらも、 「ううッ、うう~ッ、コーンポタージュ~」  と真剣に答えた。 「増田、泣くな、男だろ。男はつらい事があっても泣いちゃダメだ。歯をくいしばって、悲しみを乗り越えるんだ」  オカマのくせに、コーチが男らしさを強調した励ましの声を掛けると、増田君は気丈にも、 「泣いてなんかないサ……、泣いてなんかないサ。ただチョット、ワサビが目にしみただけサ」  と言いながら、軍艦巻きを頬張った。 *  ほどなくして増田君は、街を出ていってしまった。噂によると離婚した親の、父親方に引き取られたそうだ。  寿司屋での一件のあと、増田君と会う機会がなかったので、ちゃんとお別れを言うことは出来なかったが、町を去るまえに時間を見つけて、増田君がやってきたのだろう。ある日スイミングスクールの駐車場の壁に、チョークでドラえもんの絵が落書きされていたことがある。  ドラえもんの横にのび太、見かたによっては増田君のようにも見える。その逆サイドに2人の男の子が描かれていた。  ドラえもんは、笑顔で手を振り、「Byeーbye」と言っていた。  ボクは、ドラえもんに向かってつぶやいた。 「バイバイ、増田君。バイバイ」
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