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カフェイン中毒
ほのかに香るキリマンジャロの香りが私の目を覚ました。
「おはよう。響」
「・・・おはよ」
私のルームメイトがコーヒーを淹れているのは目を開かずとも理解はできた。それも『私のために』コーヒーを淹れたこともだ。何故なら彼女はコーヒーを飲むことができないからだ。私はコーヒーを一口飲み、目を覚まそうとした。愛しい静香の顔を見るために。
「今日は午前の授業ないんだっけ?」
「うん。今日のミクロ経済学は休講だから。」
「そう。今日は珍しく二人でゆっくりできるのね。」
「午後の大学もサボろうかな?」
「やめなさい?あの授業は欠席課題厳しいのよ?」
私のルームメイトである静香は子を諭す母のように注意した。私はそんな子供のような私を心配してくれる静香のために紅茶を淹れ始めた。同居生活が始まって以来、互いのために飲み物を淹れるのが定例となっていた。コーヒーが好きで紅茶が飲めない私。紅茶が好きでコーヒーが飲めない静香。幼いころは二人ともどちらも飲めなかったのにね。運命の女神とやらは嗜好までも私たちを引き裂くのだろうか。そう考えた時期もあったな。部屋には紅茶の爽やかなベルガモットの香りが広がった。
「今日はアールグレイね。響はやっぱセンスいいわ。」
「アールグレイなんて、ありふれた銘柄じゃないの」
「今日は雨だし、柑橘系の香りでサッパリしたい気分だったのよ。」
「なら、レディ・グレイも今度買おうかな。」
「別にいいのよ?私は『響の選んだ紅茶』が飲みたいのよ。」
静香はイタズラっぽくクスリと笑った。
「・・・もういい。アールグレイにミルク入れてやる。」
「やめてよ!私は香りを楽しみたいの!」
先ほどまでの余裕は嘘のように、彼女は顔を赤らめるほど慌てふためいた。そして、私からアールグレイを奪い取り静香は紅茶を楽しみ始めた。私が男性であったならば押し倒していたのではないだろうか。そう思わせるほど彼女が幸せそうに紅茶を飲む様子は何故か煽情的に感じた。
「なんで静香ってミルクティー嫌いなの?別にアールグレイなら普通なのに。」
「香りが悪くなる気がするのよ。」
「昔はミルクティー好きじゃなかった?」
「そんな時期もあったかしらね。でもね・・・」
突如として静香の瞳から光が失われた。
「牛乳なんて澄んだ紅茶を濁らすしか能のない生臭い液体よ。」
「そんなこと言わなくたっていいじゃない。」
「忌々しい。あの女のことを思い出すわ。」
「母親のことを『あの女』呼ばわりなんて・・・」
「私と病気のお父さんを置いて『牧場の男』のもとにいったクズよ。」
言葉の通りだった。静香の母親は静香のお父さんが病気で倒れた直後離婚を申し込んだ。客観的に見ても恩知らずとしか評することしかできない『クズ』だった。その半年後、静香のお父さんは闘病むなしく死を迎えることとなってしまった。葬式の時、『あの女』はケロっとした顔で線香をあげに来た。その時、見舞いと称して持ってきたのが『牧場の男』の牛乳であった。泣き崩れながら『あの女』に牛乳を静香が投げつけていたのが印象的だった。私も静香の前でとてもじゃないけど、彼女のことを『お母さん』とは呼べなかった。
「響がいなかったら、響のご両親に養子にしてもらえなければ、私は・・・」
「大丈夫だよ。私はいなくなったりしないから。」
「うん・・・響大好き・・・本当に・・・」
どちらからともなく私たちは口づけを交わした。私にとってこの世で最も大切で最も尊い時間。私が唯一、紅茶の渋みを幸せと感じられる時間でもある。静香にとっても、この時間くらいはコーヒーの苦みを幸せと感じてくれているのかな。そんな期待を胸に、私はこのひと時を過ごす。一瞬に感じられたが、五分も時間が過ぎたようだ。愛の力は時空すら歪ませてしまうのかしらね。
「静香は鴛鴦茶って知ってる?」
「えんおうちゃ?」
「元々は香港の飲み物なんだけどね。コーヒーと紅茶と練乳を混ぜた飲み物なのよ。」
「変わった飲み物ね。面白いけど、どこで知ったのかしら。」
「マスターがね、教えてくれたの。」
マスターとは私のバイト先『喫茶 アスタロト』のマスターのことである。私くらいの年頃の孫がいるらしいが海外に留学しているらしい。そのためか、私に親しく接してくれている。紅茶とコーヒーの淹れ方が格段に上手になったのはマスターのおかげだ。でも、コーヒーはお店以外では入れないんだけどね。
「私たちにピッタリな飲み物だと思うんだけど、一緒に飲んでみない?静香。」
「コーヒーと紅茶は別にいいのだけれど・・・練乳はちょっと・・・」
「別にいいじゃない。牛乳そのままってわけでもないし。」
「でも!」
「それに静香は昨日の朝、嬉しそうにカスピ海ヨーグルト食べたじゃない。」
私はイタズラっぽくクスリと笑った。さっきのお返しだ。もちろん練乳もカスピ海ヨーグルトも原料は牛乳だ。そこにある差は発酵食品か否か、それくらいだろう。
「カスピ海ヨーグルトは固体っぽいからいいの!」
「普通のヨーグルトより粘り気が強いだけじゃない。」
「良いったら良いの!でも・・・」
「何?」
「響がえんおうちゃ?を飲めって言うなら良いわよ。」
「どうして?」
「言ったじゃない。私は『響の選んだ紅茶』を飲みたいのよ。」
「ふーん。」
私はにやける顔を元に戻す術を知らなかった。不器用に照れながら顔を赤らめる静香の顔を永久保存したい。という欲望を抑えきれず、私はスマホの中に天使の顔を半永久保存した。それからしばらく、私の待ち受け画面に天使が座したことは言うまでもない。
「何よ。響はいつも茶化してばっかりなんだから!」
「そんなこと言わないでよ。可愛い顔がもっと可愛くなっちゃうよ?」
「もう!響なんかウンチコーヒーしかもう淹れてあげない!」
ウンチコーヒーとはコピ・ルアクという銘柄の高級コーヒーである。ウンチコーヒーと揶揄される理由は独特の製法にある。コピ・ルアクは簡単に言うとジャコウネコのウンチから作ったコーヒーである。ジャコウネコはコーヒーの木の果肉を栄養としており、消化できない種子に当たるコーヒー豆はウンチとしてそのまま排泄される。そのウンチの中からコーヒー豆を取り出し洗浄、乾燥させたものが、世界一高級とも呼ばれるコーヒー『コピ・ルアク』の正体である。ジャコウネコの消化酵素やら腸内細菌の働きで独特の香味が加わるらしい。要するにだ。私は何が言いたいかというと・・・
「静香!ありがとう!愛してる!!!!!!」
「何でそうなるのよ!絶対響嫌がると思っていたんだけど?」
「だってマスターの店にもないんだよ?あんな高いコーヒー滅多に飲めないよ!」
「響のコーヒーオタクっぷりを忘れていたわ・・・」
「言質とったからね?これでほぼ全銘柄制覇だ!」
「ん?」
しまった。やってしまった。わが天使から怒りのこもった視線が向けられる。静香の瞳から光が一瞬で失われた気がした。あれは嫉妬によってなのだろうか。私は静香の淹れるコーヒーしか飲まないということになっている。逆に言えば静香は私の淹れる紅茶しか飲まないと言うことでもある。私たちの同居ルールの一つがそれだった。互いの愛を確かめるために、と。静香が今まで入れてくれたコーヒーは『喫茶 アスタロト』オリジナルブレンドである。つい、三日前から飽きないようにと私のために新しいコーヒーを探し始めていた。今朝のキリマンジャロが初めてのオリジナルブレンド以外だった。つまり、だ。確定的に私は静香を裏切っている。
「マスターでしょ?随分と仲良さそうだしね。」
「ごめん・・・」
「バカみたい。舞い上がって早起きしてキリマンジャロ淹れて。」
「ごめん・・・」
「響が初めて飲むキリマンジャロだって思って温度まで調べて・・・」
「ごめん・・・」
「私が淹れるコーヒーよりもマスターのほうが美味しいなんて分かりきってるのに」
「そんなことはないよ。私は静香の淹れたコーヒーの方が好きだよ。」
「あるよ!本当バカみたい!私!響を束縛してさ!本当に嫌な女だわ!」
静香は久々に大泣きした。静香のお父さんの葬式以来ではないだろうか。こんなに感情を露わにして泣きじゃくったのは。『あの女』を思い出させたばかりだからセンチメンタルになっていたのか。それとも裏切ったのが私だったからなのか。私には泣きじゃくる静香を前にしてかける言葉もなかった。私にできたのは無言で静香が落ち着くまで抱きしめることくらいだった。
「響は優しいよね。こんな嫌な女と一緒にいてくれる。」
「そんなことないよ。私だって静香なしじゃ生きられない。」
「本当?」
「本当だよ?コーヒーのことは本当にごめん・・・」
「別にね?本当に怒っているわけじゃないの・・・ただ怖くて。」
「さっき言ったじゃない。私はいなくなったりしないって。」
「分かってはいるはずなのよ。でも心配になると、止まらなくて。」
「じゃあ、体に分からせるしかないね。忘れられないくらい。」
私は静香の口内の紅茶の渋みを味わうことにした。彼女にも私のコーヒーの苦みを味合わせた。今度は五分なんて短い時間じゃなく。静香を心配させないために。静香の体に私の愛情を永遠に刻み付けるために。自分の劣情を満たすために。私が正気を取り戻すころには長針が一周していた。しかし、その頃には静香が正気を失い、止まる様子もなかった。二人そろって正気になったのは結局お天道様が一番高くなった頃であった。
「鴛鴦茶。美味しいと思うわ。」
私をまっすぐ見つめて静香がそう告げた。私はキョトンとしてしまった。
「どうして?」
「鴛鴦茶ってコーヒーと紅茶を混ぜた飲み物でしょ?」
「そうだけど・・・」
「なら美味しいに決まっているわ。」
「どうしてよ。」
「私の好きな紅茶に私の『大好きな』響の味がするんでしょ?」
「わ、私の味って・・・」
私はこの時金魚の様であっただろう。さながら、飢えた金魚が餌を見たように口をパクパクと。いや、顔の色も鮮やかな赤い金魚の様だったろうな。
「バカ!本当に静香はバカ!」
「いいじゃない。私は本気よ?」
「もう・・・まぁいいわ。今週末は空いてるの?」
「空いてないわ。ゼミの発表があるのよ。」
「じゃあ来週末かな?結構遠いけれども。」
「嫌だ。今日行きたい。すぐ行きたい。」
「午後サボるなって言ったのは静香じゃないのよ。」
「だって行きたいんだもん。ね?お願い。」
静香の上目遣いに対して私は対抗手段を持たない。この日は徹夜で二人仲良く欠席課題にいそしんだのは言うまでもない。眠気覚ましのために互いに紅茶とコーヒーを淹れあい、二人だけの時間を楽しめたのでそれはそれで幸せだったのも事実であるが・・・それはさておき、静香という名の大天使兼小悪魔の誘惑に負けた私は、午後『喫茶 アスタロト』へと向かうこととなったのだ。
「臭い!くさい!クサイ!」
「確かにこの匂いは一年以上経っても慣れないよね・・・」
「『綺麗な薔薇には棘がある』って言うけど『綺麗なイチョウには銀杏がある』ね」
「そうかな?別に私はイチョウ綺麗と思わないけど。」
「何で?秋に散ってしまうなんて儚いじゃない。」
「散っちゃうなんて切なくて。落葉樹なんて悲しみの象徴みたい。」
「響は変わった捉え方するのね。でも嫌いじゃないわ。」
「少なくとも私たちには似合わないと思う。」
「そうね。一年ポッキリで散ってしまうなんて嫌よね。」
「私は松が好きかな・・・」
「確かに松は葉を落とさないし、年中青々しく元気だわ。」
「それだけじゃない。私は『松』になりたい、『赤松』になりたい。」
「っまた!また!響はそういうことを真顔で言うんだから!」
「だって本当のことだもん。恥ずかしがることなんてないよ。」
嘘だ。これはただのポーカーフェイス。内心はドキドキしているに決まっている。今だって胸が張り裂けそうなくらいバクバクと脈打っている。今日という日が寒くなければ、顔は赤面していただろう。だって赤松は私の名字なんだもの。とりあえず、私は話を逸らすという決断をした。苦肉の策である。
「にしても、寒いね。ほんと。」
「本当に寒いわ。手とか冷えて感覚なくなってきそう。暖まる方法はないのかしら?」
「そうだね。手袋持ってくればよかったね。」
「ホント、響ったらこういうところは鈍感なんだから・・・」
私は何故かこの時鈍感で、まったく静香の思惑を理解していなかった。自分から静香を煽っておいてね。今度、手編みの手袋でも編んであげようかしら。勿論、精一杯の愛情を込めて。
「手を繋ごうって話よ!!!」
恥ずかしそうに、しかし力強く告げる静香は美しかった。私はこちらに差し出されたら手をしっかりと握る。しかし、実現した現実というのは静香の予想とは外れたであろう。きっと恐らくは予想よりも幸せな世界であった・・・はずと思いたい。私は静香の指と指の間に私の指を滑らせた。所謂、恋人つなぎである。
「き、気が利いてるじゃない・・・」
「素直じゃないなぁ。静香。嬉しくてたまらないんでしょ?」
「調子に乗らないの!まぁ嬉しいのは本当だけれど。」
「素直な静香のほうがやっぱり可愛いなぁ・・・」
「・・・もう知らない。」
私の不用意な一言により、私の天使は『喫茶 アスタロト』につくまで、まったく口を聞いてくれないほど拗ねてしまった。しかし、一度繋がれた手も『喫茶 アスタロト』まで繋がれたままだった。イチョウ並木でも。地下鉄の中でも。ビル街でも。『喫茶 アスタロト』の扉に手をかけるその時まで。私は、一言も会話がなかったのに幸せに感じていた。静香だってきっと幸せだったに違いない。だって私は見逃さないもの。静香の口角が上がりっぱなしだったのを。スマホにも保存した。無論、無音カメラで。
「こんにちは。マスター。」
「ん?響君か。今日はバイトの日じゃないぞ?」
「わかってますよ!今日はお客として来たんです!間違えるわけじゃないですか!」
「先週の金曜日が祝日なことを忘れてやってきたあの女の子は響君のドッペルゲンガーだったのかね・・・」
「祝日なことを忘れたのはしょうがないじゃないですか!」
「まったく・・・僕がたまたま居たからよかったけどね。」
「結局、あの後店のお掃除手伝ったからいいじゃないですかぁ・・・」
「まぁ実際助かったね。年寄りには低いところの掃除は腰とひざが痛いね。」
「マスター、コンドロイチンとかグルコサミンでも頼めば?」
「もう飲んでるけど、あれ全然効かんわ・・・」
「止めたら、歩けなくなるんじゃ・・・痛っ・・・」
痛みを感じた方向を見ると、私の腕を抓る美少女が約一名。きっと彼女は私とマスターが仲良さそうに会話を交わすのがご不満なのだろう。彼女は清々しいほどにっこりと笑っている。その笑みは驚くほど冷たく感じた。それはそれはキンキンの生ビールみたいに。マスターはキョトンとしている。当たり前だ。マスターには分かるまい、この可愛らしい瞳の奥にメラメラと嫉妬の炎が燃えているとは、ね。白髪還暦越えの老人に嫉妬する少女のほうが、稀有なのだから仕方あるまい。でも、なんか嬉しくなっちゃってるな。私
「響?いいかしら?」
「あぁ、ごめんごめん。こちらが私の同居人、赤松静香です。」
「こんにちは。いつも響がお世話になっています。」
「いつも話には聞いているよ。静香さん。響君は静香さんのことばかり話すからね。」
静香の私を抓る力が弱くなった。むしろ、抓るというよりギュッと掴んでいる感じってところだろうか。お許しを得れたということだろうか。何だかんだ、静香ってちょろいのよね。
「で、今日はどうしたんだい?」
「あ、そうだ。私たちは鴛鴦茶を飲みに来たの。」
「なるほど。わかった。今から入れるよ。丁度練乳が今あるしね。」
「あーそっか。いつも夏の期間のカキ氷用しかないもんね。なんであるんです?」
「我儘な我が姫君が帰ってきていてね。」
「あ!お孫さんお帰りになっていたんですか。」
「あぁ。『練乳たっぷりのカキ氷』の注文付きでな。」
「可愛いじゃないですか。そんなもんで済むならね。」
「にしても、業務用練乳の半分近く使い切るって異常じゃろうて・・・」
「女の子に甘いものは付き物ってやつですよ!」
「確かにな。かわいい孫のためじゃ。しかも君たちのためにもなるときた。」
何故か、満足気にマスターは調理場へと消えていった。その後ろ姿は腰やひざを痛めている老人とは思えないほど軽やかであった。余程、お孫さんの帰省が嬉しかったんだろうな。
「随分と仲良さそうなのね?」
「本気で嫉妬していたの!?」
「仕方ないじゃない。マスター渋くてカッコいいもの。」
え?マスターがカッコいい?うそだ。うそだよ。え?本気で?おじいちゃんだよ?毎日サプリメント何個も飲んでるような。なんか嫌だな。私は別にマスターのことなんてさぁ・・・あれ?何で私こんなに余裕ないんだろう。なんでマスター相手にこんなムキになって・・・あ、嫌なんだ。静香の視線の先にいるのが私じゃないことが。静香の脳内に私以外の不純物が入り込むのが・・・嫉妬ってやつだよね。これ。あぁ・・・嫉妬ってこんなつらいことなんだね。こんなつらい気持ちを静香に味合わせていたなんてね。反省しなきゃ・・・だね。
「少しは反省したかしら?」
「うん。って・・・えぇ!?!?」
「少しは嫉妬してくれるかな?と思っていたけど予想以上だったわね。」
「試したっていうこと?」
「そういうこと。可愛い反応で意外だったわ?」
「酷い、酷いよ。でも私の気持ち分かったでしょ?」
「うん、ごめん。でも凄く嬉しかったよ。」
「でも、私たち本当にバカね。」
「本当よ。二人そろって還暦超えたおじいちゃん相手に嫉妬するなんてね?」
「そうよ!マスター最近白髪だけじゃなく髪も薄くなってきたしね!」
「コホン・・・悪いね。髪の薄いおじいちゃんで・・・」
「「マ、マスター・・・」」
「まぁいいよ。君くらいの子たちはこんなジジイ嫌いだろうし・・・」
「海外ではハゲはセクシーって扱いらしいよ?」
「ハゲ・・・まぁそんなことはどうでもいいわ。出来たぞ。鴛鴦茶。」
マスターのさっきまでの生き生きとした雰囲気は消え失せていた。しかし、その手には湯気を立てた二つのコップがあった。もちろん、その中には鴛鴦茶が入っている。
「ミルクティーみたいな見た目ですね。」
「確かにそうだね。コーヒーミルクティーと呼ぶ人もいるみたい。」
「あ、甘くて美味しい。」
「良かった。」
「これってどうやって作るんですか?マスター。」
「色んな作り方あるし、紅茶とコーヒーの割合も色々あるんだけどね。これはコーヒーと紅茶を別に淹れてその後混ぜる作り方にしてみたよ。割合は一対一。」
「一対一の割合は私たちにピッタリだね!」
「そんな気がしてね・・・君たちは鴛鴦茶の『鴛鴦』の意味を知っているかね?」
「知らないです・・・」
「響に聞くまで鴛鴦茶も知らなかったので・・・」
「『鴛鴦』ってのはね、オシドリって意味だよ。」
「オシドリ・・・ってオシドリ夫婦の?」
「そうだよ。オシドリ夫婦っぽいだろ?君たち。」
「夫婦だってさ?静香。」
冗談めかして、静香をみると平気そうな顔をしていた。耳が赤くなっていたこと以外は・・・そして、静香は話を逸らした。
「練乳入っていても美味しいわね。」
「練乳苦手なのかい?」
「練乳というか牛乳が苦手なんです。」
「静香は飲まず嫌いなだけだと思うよ。」
「うるさい!」
「ハハハ、君たちは本当に仲がいいね。」
マスターは孫を見るように、私たちを眺めていた。その後も私たちは三人で会話を楽しんだのであった。
「それでは鴛鴦茶ご馳走様でした。お代は・・・」
「いいよ。静香さん。お代は要らないよ。」
「え!マスターの奢り!?やった!」
「響君の給料から天引きしとくからね。」
「そんなぁ!」
「冗談だよ。またおいでね。あと響君。次のバイトは明日だよ?」
「分かってます!ではさようなら!」
「青春じゃな・・・」
私たちには決して届かない声でマスターはそう呟いていた。
「オシドリ夫婦だってさ、私たち。」
「本当に私たちのためにあるみたいね。鴛鴦茶。」
「時々、家でも鴛鴦茶淹れてみる?」
「いや、いいわ。私たちにピッタリだけど私たちには必要ないと思うの。」
「どういうこと?」
「マスターが言ってたじゃない。鴛鴦茶には『色んな淹れ方』があるって。」
「言ってたわね・・・まさか。」
「そう。私たちいつも作っていたのよ。お互いの口の中でね。」
静香は口元に手を当ててこちらにウィンクをした。
「静香ってさ、大胆だよね。」
「私が大胆なのは貴方に対してだけよ?」
「ま、私も大概かな・・・」
「でも、練乳がないと鴛鴦茶って呼べないか。」
「そんなことないんじゃない?だって十分『甘い』もの」
「・・・ばか」
結局帰り道も静香は口を聞いてくれなかった。イチョウ並木でも。地下鉄の中でも。ビル街でも。しかし、今度は腕を組んで歩いて帰った。家に着くと私たちは案の定欠席課題に追われた。
気が付くころには朝日は昇っていた。辺りには嗅ぎなれないコーヒーの香りが漂っていた。
「おはよう。響」
「・・・おはよ」
この嗅ぎなれない香りはコピ・ルアクによるものだった。本当に私のために買っておいてくれていたようだ。私がウンチコーヒーに拒否感があったらどうしたんだろう・・・と、考えていると静香が口元に顔を近づけ、こう告げた。
「ねぇ、響、『鴛鴦茶』淹れよ?」
「わかったよ。静香。」
私たち『オシドリ夫婦』は私たちのやり方で『鴛鴦茶』を淹れた。
マスターに淹れてもらった鴛鴦茶よりも遥かに甘かった。
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