激動の年

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1995年 1月17日 5時46分52秒 阪神・淡路大震災、発生。 「兵庫で大きな地震があったみたいね」 母はそう言った後に私を連れて一階の店舗スペースに降りた。私の家は居酒屋を経営しており、二階が私達家族三人の住む居住スペース、一階は全てカウンターと厨房で構成された店舗スペースとなっている。私達は震源地の淡路島から遥か離れた地域に住んでおり、今回の震災では震度は3から4の地域となっていた。 母と二人で厨房に向かうと、そこでは父が手をだらりと下げ、ぽかーんと立ち尽くしていた。酒を出すためのグラス、料理を出すための皿が全て棚から落ち、この居酒屋を創業した当時から使っていた皿や徳利やグラスがほんの一瞬で瓦礫と変わり果てたことで父はショック状態に陥っていた。 父と母が割れた皿や徳利やグラスの掃除をするのを何とも言えない思いで見つめながら私は小学校に向かった。 小学校でも話題は地震一色だった。いつもはポールの頂点で翻る日本国旗と校旗も半分の場所で強い風を受けて翻っている。今朝のホームルームの担任教師の話題も地震であった。ホームルームの終わりには黙祷が行われた。 その日ばかりは軍隊の訓練のように連日行われていた卒業式の練習も休みとなり普通に授業を受けて一日が終わる。その日の帰りの会で担任教師が言い出した。 「明日から一週間、この地震で困っている人のために募金をすることになりました。皆さんの気持ちを神戸や大阪に届けてあげましょう。集めた募金は全額被災地に送られます」 私は家に帰り、厨房の掃除が終わり店のテーブルで何やら神妙な顔をしながら電卓を弾く母に募金の話をした。 「そうよね、こういう時は助け合いだものね」 母は黒い集金袋より千円札を一枚取り出した。私はそれを受け取る際に母の弾く電卓の下に置かれた出納帳に書かれた「皿、○○万円」「グラス○○万円」の数字を見てしまった。 「ねえ、お母さん。グラスと徳利とお皿全部新しいの買うの?」 「当たり前でしょ? そうしないとウチ商売出来ないんだし」 確かに本日より私の家の居酒屋は休業だった。店の前には【皿・徳利・グラス、今回の震災の破損により営業不可。すみません】と、書かれた貼り紙が貼られていた。震災の影響か物流も乱れており必要なものが届くにはまだ暫くかかるとのことであった。 「いいの? 今ウチお金大変じゃないの?」 「あなたが気にしなくていいのよ。うちもお店開けなくて大変だけど、神戸や大阪の人の中にはお家が崩れちゃったりしてもっと大変な人がいるのよ」 いつもの平時の募金であれば母は10円ぐらいしか渡してくれない。ただ、今回はそれより遥かに多い千円を今店が大変なのに出してくれる。私は実の息子の私に向ける優しさとは違う優しさを母に感じた。少しでも被災地の役に立てればと思う善意と言った方がいいかもしれない。
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