激動の年

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 私は教師達に対して何とも言えないモヤモヤした気持ちのままで小学校を卒業することになった。卒業式では卒業生の胸に造花の真っ赤なコサージュが付けられるのだが、何故か私だけコサージュは付けられなかった。ただ、忘れたのだけかと思われたが、私にコサージュをつけようとした保護者会のオバちゃんが私に付ける寸前に教師に耳打ちをされ、それから何も言わずに私の後ろの友人にコサージュを付けた。皆が胸にコサージュを付けているのに私だけ何故付けられないのだろうか。その後に行われた最後のホームルームでは皆に記念の紅白饅頭と赤い表紙のノートが送られたのだが、私だけそれを貰うことが出来なかった。 「どうして僕だけ貰えないんですか」 私は担任教師に尋ねるがその答えは返ってこない。仕方がないので隣の女子が持っていた紅白饅頭とノートをちらりと見ると帯に「保護者会贈」と印刷された筆文字で書かれていた。当時の私はこの不条理の意味が分からなかったが、今にして思えば「復讐」だったのだと大人になった今だから分かる。いや、復讐という言葉を使うのは勿体無い「しかえし」や「いやがらせ」と言う方が相応しいだろう。 それから16年後…… 私は28歳となり父から居酒屋を受け継いで店長になった、この晩婚化の時代で運良く20歳で結婚出来たおかげか小学校低学年の息子も儲けている。 これまで通りの大衆居酒屋ではこの不況を乗り切れないと思った私は時流に合わせ洋風居酒屋にリニューアルをすることにした。それが功を奏したのか不況だ不況だと叫ばれている中でも順風満帆な経営が出来ている。
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