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やってきた一冊
「美雪って本とか好きだっけ」
十数分後には、二人でカフェの一席に収まっていた。
あゆはストローを咥えながら、美雪の手にしているものを見て、ちょっと意外だとばかりにそう言った。
結局、一階にあるカフェに入ったのだった。地下まで行ってみたけれど、タピオカの店は長蛇の列だった。少し疲れている折だ、並ぶ気力はなかった。
よって、さっさと諦めてカフェにすることにした。タピオカは、また空いている頃を見計らって行ってみよう、ということにして。
「特別好きってわけじゃないけど。これ、結構オシャレで気になってたんだよ」
一応の説明はしたものの、どうして、どこで見て、『気になってた』とは言わなかった。
あの落とし物の件以来、彼とは毎日のように顔を合わせるようになっていた。
今では一方的に見ているだけではなく、彼が乗ってくれば「おはよう」と言ってくれるほどになった。
あとから乗ってくる彼は、毎日美雪の乗る車両に来るとは限らなかった。
それは友達と待ち合わせているとか、あるいは駅で乗り込む場所がその日は違っていたとか、そういう都合だろう。それまでだって、絶対に毎日同じ車両ということはなかったので、別におかしなことでもない。
けれど、乗ってきた日は彼は美雪の元に来てくれる。そして「おはよう」と言ってくれるのだ。
「今日の本はなに?」
美雪はたいがい席を取れているので、彼はその前に立つ。はじめは少し恐縮してしまったのだけど、「せっかく席、取れてるんだから座ってなよ」と彼が言ってくれたので、お言葉に甘えている。
彼の手にしているスマホの『本』が変わっていたときは美雪はそう聞く。
先日のものは、赤い表紙だった。太宰治だそうだ。
それについて話をすることもあれば、彼は読書に。美雪はスマホで友達に連絡を取ったりSNSを見たり。そういう、別のことをして過ごすこともある。
ただ以前と違うのは、彼はそのまま美雪の前に立ってつり革に掴まり、そしてスマホの電子書籍を繰って本を読んでいく、ということである。わざわざ「じゃ」なんて去って行ってしまったりしないのだ。
そのことは美雪を少々どきどきさせるような出来事であった。
彼の読書をする姿が好きなので。それは前から。知り合う前から。本に夢中になっている様子が、見ていてとても心地いいから。
しかしここしばらくでは、その『読書をする姿が好き』というのは少々不適切になってきてしまったのを感じていた。それにつく名前はあるのだし、知ってはいるのだが、まだ明確ではなかった。
というより、どうにも臆してしまっていたのである。名前を付けてしまえば、こうやって近くで本を読んでいる姿を冷静に見守ることなどできそうになくなってしまいそうで。
よって、たまに視線を上げて、彼のスマホについた『本』が電車が揺れるたびに、ふらっと揺れるのを見ているのであった。
ただそれも、あと数日で夏休みに入ってしまうから、しばらくなくなってしまうだろうけど。
それでも夏期講習などもあるので、そういうときに学校に向かえば電車で偶然会うということもありうるかもしれない。毎日決まった時間の通勤、通学電車よりはだいぶ可能性は落ちそうだけど。
それはどうにも残念なことである。
それはともかく。
美雪は注文したいちごシェイクが来て、ひとくち、ふたくち飲んで。やっと落ち着いたあとに、買った『本』のブラインドボックスを取り出した次第である。
ちなみにあゆは、さっさと『オッケーちゃん』の箱を開けていて微妙な顔をしていた。
出てきたオッケーちゃんは、海パンを穿いていた。あゆの一番欲しかった、浮き輪をしているものではなかった。「これもかわいいけどー」と言ったあゆは、少々不満ということらしい。
それがブラインドボックスというものの楽しみなところであり、そして少々困ったところでもあるのであった。
そして美雪の手にしたものも、同じくなにが入っているかはわからない。あゆのときと違うのは、明確なお目当て、入っていてほしい! と強く思っているものが特に無いということだ。
よって、なにが入っているかという気持ちは、わくわくするほうが強かった。
テープを剥がして、箱を開いて。
出てきたのは、なにか、緑のツタが絡んだような柄が全面に入っている表紙の『本』だった。
もちろん一目ではわからなかった。元々の知識がそれほどないうえに、初版本の表紙、彼の持っているものでこのシリーズを見てはいても、今のところこれを見たことはなかったし。
「なんの本?」
自分のアイスカフェラテを飲みながら、あゆが軽い調子で聞いてきた。
「ええと……若山牧水だって。『幾山河』」
箱を見て、その印刷と照らし合わせて、やっとなんの本かわかった。しかし、タイトルすら知らない本であった。あまり身近には感じないものであったことは、少し残念だ。
「若山牧水? ……えーと……短歌のひとだよね」
あゆはちょっと考えて、言った。「そうだね」と言った美雪も、若山牧水についてはそのくらいの知識しかなかった。よって、スマホに頼ることにする。
『白鳥は かなしからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ』
出てきた一番有名な歌。それは美雪もあゆも聞いたことがあった。国語の授業にも出てきたくらいの有名さゆえだ。
そしてもう少し調べてみた。それはこの『本』。緑の柄の本には一体どんな作品、短歌なのであるから歌か。それが収録されているのだろうかということ。
調べるのはこちらも簡単だった。本のタイトルはブラインドボックスの箱に書いてあったのだから。
『幾山河 越えさり行かば 寂しさの終てなむ国ぞ 今日も旅ゆく』
知らない歌だったけれど、なんとなく意味はわかるような歌であったし、ご丁寧に解説も載っていた。
いくつの山や河を越えていけば、この寂しさは終わるのか。それを求めて今日も旅をする。
ざっくり解釈すれば、このようなことらしい。
しかし短歌である。込められた想いや解釈はもっと深くあるのだろう。それも知ってみたかったけれど、あとにしたほうが良さそうだ。なにしろ友人と一緒であるので。
美雪はそこまで知ったところで一旦満足しておくことにする。スマホを暗転させて、テーブルに置く。いちごシェイクをひとくち飲んだ。
「オシャレな本だねぇ」
美雪がスマホで調べ物をしている間に、あゆは『本』を摘まみ上げてしげしげと絵柄を見つめていた。箱から出したばかりなので、まだ包装のビニール袋に入っている、それ。
「そうだね。山とか河とか出てくるからかなぁ。自然の草木みたいな感じがするかも」
「確かに」
そこでこの話は終わりになった。さっきの買い物のことに話は移っていく。
どんなときにどれを着ようとか。そしてあゆは彼氏とのデートに着ていくのにどれがいいのかなどを、美雪に相談してきたりだとか。
同じ学校に彼氏がいるあゆのことは前から少し羨ましかった。当たり前のように、女子高生として恋人というものにはおおいに興味があるのだから。
自分も恋人は欲しいと思う。そしてそこへほんのり入りつつあるひとがあることも感じていた。
けれどそれはやはり……まだ明確ではないのであった。少なくとも、こんなところで気軽に話題に出せる領域には、まだほど遠かった。
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