落とし物

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落とし物

 夏休みの近付いたときのことであった。  学校は違おうが、夏休みに入るタイミングなんてそう違いのあるものではない。  美雪の学校は先週末に学期末テストがあって、ひと段落したところで。夏休みも間近だ。  よって現在は夏休みのことで頭はいっぱいであったし、学校でも交わされるのはそんな話題ばかりであった。  夏休みはテーマパークに行こうとか、花火大会に行こうとか。  なにしろ夏。楽しいことなんてありすぎて、一ヵ月以上休みがあってもとても足りない。  なのでスマホでの調べ物もたくさんあった。イベント情報、夏服のセール。チェックしておきたいことばかり。  最近はそれに気を取られていて、しばらく気にしていた、犬のような印象の彼の『本』について。それについても、あまり考えなくなっていた。  彼が乗ってきて居場所に落ちついて、スマホで読書アプリを開いて、だろう。落ちついて読みはじめた頃に「今日の『本』は青い表紙」と確認して、ちょっとだけ、見覚えがないかどうか考えるだけにとどまっていた。  そしてその日も特に変わりはなかった。美雪はスマホを見つめて、花火大会のスケジュールをカレンダーアプリに移しているところであったし、犬の彼は相変わらず読書に集中していた。  ただ、美雪が偶然、あるタイミングで、ちょっと視線を上げた。それがすべての変化だった。 「次は……────駅……」  アナウンスが入る。彼の降りる駅である。  ああ、じゃあもう少しで私も着くなぁ。  その程度に思った。しかしながらそれだけで済まなかったのである。  電車の速度が落とされ、駅に滑り込み、あと数秒でドアが開く。  彼はアプリを閉じて、いつもそうしているように、スマホをポケットに突っ込んだ。くっついていた『本』が、ぴょこっとポケットから飛び出る。  そしてそのもう少し上。彼が肩から掛けていた、ごくプレーンなスクールバッグ。そこから、ぽろっとなにかがこぼれた。  美雪が、あっと思ったときには、そのなにかはバッグを完全に抜け出して、電車の床へ向かって落ちていった。  落としたわ。気付くかな。  一瞬、思った。すぐ気付くだろうとも思ったのだけど。  落ちたそれは、タオル地のハンカチ、のようなものに見えた。ぱさっと落ちたそれに、どうやら彼は気付かなかったらしい。そのまますたすたと行ってしまう。  いけない、と美雪はどきりとした。 「あ、あのっ!」  美雪は声を出した。呼び止めるつもりであった。  けれど彼は自分が呼ばれたとは思わなかったようだ。そのままドアから出ていってしまった。電車の床に、ハンカチを残したまま。  ためらった。まだ途中の駅だ。こんなところで降りている場合ではない。下手をしたら学校が遅刻になってしまう。  けれどそこへ、ジリリ、とベルが鳴った。  発車してしまう。美雪の心臓が冷える。だが、ためらいは消えなかった。床のハンカチとドアを交互に見たけれど、無情にも、プシュッと音がしてドアは閉まってしまった。  その瞬間、後悔した。  遅刻なんて、つまらないことだろう。あのひとが大切なものをなくしてしまうことに比べたら。  でも自分はそれを瞬時に判断できなかった。美雪は悔しさにくちびるを噛んでいた。  が、すぐにそれを振り切る。ぱっと席を立った。  それなりに混んでいるのだ。一瞬空けただけでも席は取られてしまいかねない。よって、自分のサブバッグをそこへ置いて、それから落ちたハンカチのもとに向かった。  拾うのは簡単だった。周りのひとたちも、ちらっと見ただけで自分のことに戻ってしまう。スマホを見たり、車内広告に視線を向けたり。  彼がこれを落としたのは見ていただろうに、冷たいことだ。  そう思った美雪であったが、自分とて、「あの」と呼ぶことしかできなかった。  同じだ。まるっきり。  後悔をまた感じながらも、美雪はすぐそこの自分の席へ戻った。サブバッグを退かして、元どおり膝の上に乗せて、ここまでと同じ、電車の座席に落ちついた。  ふぅ、と小さく息をついた。大したこともしていないのに、ちょっとどきどきしていたので。  電車で声をあげてしまったこととか、それでほかのひとに見られてしまったこととか、それでもこの落とし物の保護をやり遂げたこととか、そういうことに。  そして次は、拾ってきたものが気になった。  拾ったのは勿論、返してあげるつもりだったのだ。  毎日のように電車で見かけるのだから、返す、というか、渡す機会がある可能性は高かった。それは美雪の後悔を慰めてくれるような事実であった。
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