本と彼の手

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本と彼の手

「もう着くな。ここで降り……いや、昨日降りるときコレ、落としたんだった。じゃ、そのとき知られてたかな」  美雪が、彼の降りる駅を知らないだろうという前提で話し出したが、すぐに昨日のことを思い出したらしい。美雪がこれを拾ったということは、落とし主である彼がここで降りたということなど、知っていて当たり前だと思いなおしたようだ。  だが、美雪は昨日のこと以前から彼がこの駅で降りていくことを知っていたのである。それは単に、近くに乗っていることが多かったからだ。  そして少しだけ特別を付け加えるなら、彼がちょっと美雪の興味を惹くものを持っていて、つまり、ちょっと気になっていた存在であったから、というのもあり。  しかしこれは言わないほうが良さそうだ。  なんだか恥ずかしいではないか。こそこそ見ていたようで。  だって彼はまるで美雪のことなど知らない、といった様子であった。電車では本に夢中の毎日、周りのひとのことも多分よく見ていなかっただろうから当たり前かもしれないけれど。  つまり一方的に見ていたも同然であるので、やはり恥ずかしい。 「そ、そうね。落としてったとき、呼んだんだけど……」  美雪の言葉に、彼はまた頭に手をやった。申し訳なさそうな顔をする。やはり「こら」などと叱られた大型犬のようであった。 「そうなのか。気付かなかったみたいだな、すまない」 「いえいえ。ちゃんと渡せて良かったよ」  電車の速度がゆっくりになっていく。そろそろ駅に入るだろう。  彼は「本当にありがとう」と、ちょっとポーチを掲げて見せてから、それをスクールバッグに入れた。今度は落とさないようにだろう、ちゃんと深くまで入れたようだった。 「しかし驚いたなぁ。これが本だって、最初から当てられたのは初めてだ」 「そうだったの?」  確かに美雪も一瞬で気付いたわけではない。しばらくの期間見ていてあるとき、偶然知っている装丁のものに当たったから気がつくことにできたに過ぎないのだ。  けれど彼はなんだか嬉しそうだった。 「だって、タイトルが書いてあるわけでもないし、今、本屋に並んでる本の装丁でもないだろ。だからよっぽど本が好きとかじゃないとわかんないだろうし」  嬉しそうな気持ちはなんとなく察せた。彼はこだわりを持ってスマホにこの『本』をくっつけていたのである。それに気付いてもらえたというのは嬉しいだろう。 「まぁ、部活の友達とかは目ざといけどね。……ああ。着いたな。じゃ、また」  また新しい話題が出かけたが、そこで駅についてしまった。電車がホームに滑り込んで、停まる。 「うん、またね」  彼は小さく手を上げて挨拶をしてくれ、そして開いたドアから出ていってしまった。  ホームに降りてからちょっとだけこちらを見てくれたので、美雪は手を持ち上げて、小さく振ってみた。彼は振り返しこそしなかったが、やはりちょっと手をあげてくれた。実に男子らしい挨拶であった。  ジリリ、とベルが鳴って、ドアが閉まり電車が再び発車する。美雪はしばらく、出ていくその駅のホームを見ていた。  彼の姿はもう見えなくなっている。けれどなんとなく、余韻を感じていたかったのだ。  楽しかった、と思う。  話せたこともそうだし、その話題もだ。  自分の予想はやはり当たっていたのである。  スマホについていた四角いものが『本』だったということ。  そして彼はそれにちなんだ本、というか作品をスマホで読書していたこと。  答え合わせできたものが多すぎて、なんだか満足してしまったし、すっきりもした。  一番は無事にポーチを返せたことだけど。  彼がこのコレクションを大切にしていることなんて、言われなくても伝わってきた。  ポーチから摘まみだして、手に乗せるその仕草。それがとても優しいものだったから。  単純に壊れやすいものだから、ではないだろう。わざわざタオル地の、つまりやわらかい素材でできたポーチに入れるのもきっと、それと同じはず。  なんだかほかほかとした気持ちで、美雪はスクールバッグを持ち直した。駅を発車して、すぐに通常スピードで走り出した電車。窓の外を、ひゅんひゅんと景色が飛んでいく。  それをぼうっと見ていた。  普段、電車に乗って外を眺めて過ごすことはあまりない。大抵スマホを見てしまう。  でもそれがなんだかもったいないように、今だけは感じた。  私もなにか読んでみようかなぁ、なんてことも思った。  美雪はあまり積極的に読書をするタイプではなかったけれど、かといって別段、本が嫌いだとか苦手だとかそういうわけでもない。機会があれば手に取ったりはする。  そしてこれはまさに、『良い機会』であろう。  彼のように『本』をつけて、それに関連した作品を読む。それは楽しいだろうという確信があった。  だって彼がとても楽しそう、というか、正しく言えば夢中になっている様子を散々見てきたのだから。  本が好きだから、なのだろうけれど、それだけであろうはずがない。中のものが面白いから夢中になっているに決まっている。  だから、なにか面白そうなものを見つけて読書というのもいいだろう。  あからさまに『本』をつけて、真似をするのは少し恥ずかしいと、思いはしたけれど。
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