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最後と決めた日、僕は中庭にテーブルを出して彼女をお茶に誘った。濃い緑の中に鮮やかな夏の花が咲き誇り、甘い香りを漂わせていた。
「私が父に何も聞いていなかったと思いますか?」
お茶を注いだ白いカップを差し出すと、彼女は悲しそうな顔をした。
「この世には本当に魔法というものがあって、それを使って人間を助けてくれる組織があると……父は困っている人と組織をつなぐ役割を誇りに思っていて、魔法使いの皆さんを尊敬していました。どんなに大変な魔法で救ってやっても、恩着せがましい態度なんかしないで、依頼人の記憶を消して何事もなかったように立ち去るのだと言ってたんです。だから、あなたも……私の記憶を消すつもりでしょう?」
内情を知っている僕には突き刺さるような言葉で、返事ができなかった。亡き占い師の人生や彼女の気持ちや、色んなことが浮かんで苦しくなってくる。
「あなたを忘れたくない」
彼女は両手を祈るように合わせ、僕を見つめた。強い眼差しに、揺るがない固い意志のようなものを感じる。
「もう行ってしまうんでしょう? 二度と会えないのなら、せめて憶えていたいの」
「それはできません」
「どうして?」
「それも言えません」
「私はちっぽけな人間で何の力もないから、行かないでとも、また会いに来てとも言えません。でも記憶があれば、いつでも私だけのあなたを思い出すことができます。そのためなら命も魂も惜しくない。代わりになるなら何だって全部あげるから、どうかお願いだから、あなたのことを忘れさせないで。この生が尽きる最期の瞬間まで、私はずっとあなたを……」
言葉につまった彼女の目から大粒の涙がこぼれ、それは宝石のように陽の光を反射して煌めきながら、ぽろぽろと滴り続けた。
なんという熱情なのか――僕の存在を憶えていたいという、ただそれだけの為に全てを捧げてもいいなんて。こんな真摯な願いを無視することは、すさまじく難しい。
「あなたは若く美しい。これからいくらでも素敵な出会いがあるでしょう。僕のことなど忘れた方が幸せになれます」
苦しまぎれに分別くさいふりをして諭したが、彼女は激しく首を振った。
「絶対に嫌! あなたを忘れるぐらいなら、今ここで死んだ方がましです」
こんなに強く誰かに想われるなんて、今まで一度でもあっただろうか。
僕は天を仰いだ。
「わかりました。記憶を消さないで立ち去ることはできません。あなたが僕を忘れてもいいと言うまで、ここに留まりましょう」
こんな小娘に惑わされるなど、自分でも正気を疑ってしまうが仕方ない。
「そんなこと、私は絶対に言いません」
少女は泣き止み、咲き誇る花よりきれいな笑顔を見せた。
「だから、ずっといることになりますね」
甘い痺れが僕を支配していく。もはや抗うことは不可能だ。受け入れることしかできそうにない。
「僕も……願わくば、ずっと一緒にいたい」
壊してしまわぬよう、そっと手を引いて抱き寄せると、彼女はたおやかな腕を僕に巻きつけ、耳元で情熱的な愛の言葉をささやいた。
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