蒼く燃える緋色の瞳と銀の髪

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 イギリス小説で有名といえば、ロビンソン・クルーソー、ガリバー、そしてシャーロック・ホームズの三人の名前があがるだろう。僕は今、ホームズの舞台となったロンドンベイカー街のバーで、薄く金色に濁ったエールを片手に黄昏れている。 「今が二十年の僕の人生で一番幸せな時間かもしれないな。大学を休学してでもきた甲斐があった。」 彼のホームズも好んだとされるローストビーフをあてに、地元のビールをちびちび飲んだ。ジョッキ二杯を飲み終わる頃には、すっかり夜が深まっていた。  ホテルまでは徒歩で二十分ほど歩く必要がある。観光街といえど一つ道をはずれると薄暗く、ほとんど人の気配がない。 「なかなかロンドンの裏路地は雰囲気があるな。」 ほろ酔いの僕は、いつもより少し気が大きくなり一人で裏路地を歩いていた。不法投棄されたゴミが散らばっており、壁にはロンドンに似合わないスプレーアートが描かれている。 すると、路地の陰からホームレスらしき小汚い男が現れた。暗くて顔はよく見えないが、髪はぼさぼさで五十代ぐらいだろうか、手に小銭の入った空き缶を持っている。  男に何か英語で話しかけられたが、無視をした。そのまま通り過ぎようとすると、後ろから肩を掴まれたので、驚いて振り払った。大きく後悔した。やはり一人で、人気のない路地裏なんて通るべきではなかった。  男の方を振り返った瞬間、鈍い音とともに、腹部に今まで感じたことのない痛みが走った。初恋の女の子に彼氏がいたと知った時の痛み。中学の時に恥ずかしいことを色々書いていたノートを友達に見られた痛み。それらも結構痛かったが、そんなことよりも今まで感じたことのない痛みが全神経をかき廻る。 茶色のレンガの上には、どす黒い僕の血が流れていた。その場に倒れ込んで腹部を確認したとき、ようやく男にナイフで刺されたことに気が付いた。 「っひぃ!っぅぁあっ!痛いっ!痛いっ!痛いっ!嫌だっ!死にたくない!」 ホームレスの男は、死にたくないと騒ぐ僕の顔面を、容赦なく蹴飛ばした。かろうじて残る意識の中で、ホームレスの男とは別の、何か黒い影が見えたが、僕の意識はそこで途切れた。  「ねぇ、起きなよ。……まだ生きたいんでしょ。……早く起きなよ。さもないと殺しちゃうよ。」 とても可愛らしいソプラノの高さの声だが、随分と物騒なモーニングコールで目が覚めた。どこか薄暗い部屋にいるらしい。細かい刺繍が施された高価そうな、でも冷たく硬いベッドから身を起こす。 「なんだ、夢でも見てたのか。」 あたりを見渡すと、ベッドの傍に何か、白に近い銀色…の頭だろうか。銀の小さな頭とルビーのように緋色に輝く眼が見えた。 「夢じゃないわよ。」 白銀の頭と緋色の眼が喋った。 「あれが夢じゃないなら…僕は死んでるはずだ。」 ベッドから起き上がっても全く痛みがない。夢に違いないのだが、念のため夢の中でホームレスに刺された腹部を確認し、…そして驚愕した。 「…っ!?なんでだよっ!?」 下腹部を見た瞬間、ぎょっとした。全く持って痛みはないのだが、僕の着ていたコートと内側のシャツには、間違いなく刃物で刺されたであろう大きな穴と、黒く塊りこびりついた大量の血がついていた。 「だから夢じゃないって言ってるでしょ。あなたは昨日、ホームレスの男に刺されて死にかけてたんだから。」 白銀の頭と緋色の眼の持ち主は、そう言いながら立ち上がった。 身長は150センチくらいだろうか。白銀の銀髪が肩までたれ、雪のように白い肌、うす暗い部屋に輝く緋色の眼は少したれ眼である。神秘的にも見える美しいゴシック・アンド・ロリータな黒いワンピースに包まれた華奢なその身体は、あまりに細く中学生ぐらいの少女に見える。 「いや、もう何がなんだか全然わかんないんだけど…。君はだれ?」 銀髪の少女は、「よくぞ聞いてくれたわね。」と、いくら張っても控えめに見える大きさの胸を張って答えた。 「私の名前は、コルア・マドルチェ・アレクサンドリア。長いからコルアでいいわ。私こそは、あなたの救世主であり、三百年生きたヴァンパイアであり、あなたのご主人様であり、あなたの運命の人だよ。」 少女はくるりと回転して、白銀の髪をなびかせた。 「……………。」 もとより石造りの寒々しい部屋だが、冷たい風が吹き込んでもっと寒くなった気がした。 「っいや。…なんか言ってくれないと困るんだけどっ!」 「もう何から突っ込んでいいのやら。」 情報量が多すぎる。僕の救世主であり、ヴァンパイアであり、ご主人様であり、…最後なんて言ったっけ。 「えーっと…コルアちゃん。もう少し詳しくご説明いただけますでしょうか。」 「なんで急にうやうやしくなってんのよ。ちょっと可哀そうな目で見るのやめてくれる!?」 この銀髪少女はなかなかの洞察力をお持ちのようだ。僕が彼女を、容姿は素晴らしいのに残念な女の子だと思ったことをすぐに見抜いた。 「っとにかくね。私がヴァンパイアだってわかってもらえないと話進まないから!」 こんなに可愛らしく焦るヴァンパイアを僕は知らない。まぁそもそもヴァンパイアなんて見たことないし、その存在すら信じてもない。 「ところで日本には、『一人娘が妹を道連れに井戸に飛び込んで焼け死ぬ』ということわざがあるんだけど…。」 僕がそう言うと、彼女は少し首をかしげて答えた。 「一人娘が妹を道連れにできるわけないじゃない。それになんで井戸に飛び込んだのに焼け死ぬのよ。」 「まぁ要するに、そんなことはありえないって意味のことわざだ。」 「っもう!疑心暗鬼どころか、全くもって信じてないわね。わかったわよ、証拠見せてあげるわ。」 彼女はタンスの引き出しから手鏡を手に取り、僕に馬乗りになるように乗っかってきた。小柄で華奢だが、女の子らしい柔らかい感触に少しドキッとした。 「年頃の女の子がこんなことするものじゃありません。」 「ちょっと、勝手に動かないでよ。」 コルアをどかそうと試みたが、押し倒されている体勢からでは抵抗できなかった。なので自分の腕と同じくらいの細さの彼女の白い脚を掴んだ。 「何するのよ。」 「足の裏ってヴァンパイアもこしょばいのかな。」 コルアの顔色が少し青ざめるのが分かった。僕は片手で彼女の右足首を掴んで、もう片方の手で、コルアが根をあげるまで足の裏をこしょばした。 「…ごめんなさい。」 素直に謝れるところが僕の長所だ。さすがにやりすぎた。服が乱れて半泣きの彼女を見ると、第三者的に見たらどうみても僕が悪い。悪く見ると犯罪者にも見紛う状況だが、僕に幼女趣味がなかったことが僥倖だろう。 「もういいから。それより鏡見なさいよ。」 コルアは着崩れたワンピースの紐を直しながら、手鏡を白銀の小さな頭の後ろに掲げた。 「…鏡を見るって、僕の顔が映ってるだけじゃないか。……っ!?」 僕はあまり都市伝説とか怪異譚だとか、そういった知識に精通していないのだけれど、ヴァンパイアが鏡に映らぬ存在という知識は持ち合わせていた。そしてこの状況はもう、手垢がつきすぎてうんざりするほどありきたりだが、それ故に100%、彼女がヴァンパイアだと認めざるを得ない決定的な証拠になった。 本来なら彼女の銀髪の小さな頭越しに、僕の顔が見えなくてはならないはずだ。しかしそこには、確かに僕の顔だけが映ってる。 「っいや、…そんなわけが!」 もう一度、何度も、彼女の四方八方に鏡を向けて映そうとしたが、鏡が彼女の姿を捉えることはなかった。どの角度に鏡を動かそうとも、彼女の姿は映らない。 仁王立ちする彼女の足元に鏡を差しこもうとしたところで、「もういいでしょ!」と顔を蹴られた。蹴られた際に、鏡越しでなければパンツは見えるのだ、という新たな発見があった。 「これでもう、変態さんは私がヴァンパイアってことは千石承知ね。」 「…変態じゃない。単なる科学的好奇心だ。」 「…刺されたまま放っとけばよかったかしら。」 緋色の瞳に黒味が増し、ひどく恐ろしい顔に見えた。じろりと僕をにらみながら、「話を戻すわよ。」と彼女はベッドからとび降りた。 「あなたが死にかけてるところに、たまたま私が通りかかった。死にかけてるあなたを見て、私は恋に落ちちゃったの。私の血をあなたにあげたおかげで…。」 「えっ?……今なんて言った?」 「もう!何度も言わせないでよっ…あなたに一目ぼれしちゃったの。」  実際にこの状況に陥った人でないと、その困惑は計り知れない。死にかけて、ヴァンパイアに助けられて、恋をしたと言われたあかつきには、もう僕の情報処理能力が追いつかない。 「ひろきって呼んでいいかしら?それともあなたの方がいいかな?///」 「いやいやっ、いいか悪いかで聞かれたらよくないよっ!ってか何で僕の名前知ってんだよ。」 「パスポートを見たもの。光月弘樹、20歳。」 「あぁ、なるほど…って。いや、そうじゃなくて、ちょっと待って。いきなり一目ぼれだとか、そんなこと言われても。」 「ひろきは、私に好かれるのは嫌なの?…そうなんだ。そっか…。」 彼女は暖炉の傍に置いてある一番大きな薪を手に取り、そばにあった鈍い銀色の鉈で先端を削り出した。鈍い銀色の鉈がコントラストになり、彼女の美しい白銀の髪がより一層輝いて見える。 「ちょっと…、何しようとしてるの。」 「ヴァンパイアは不老だけど、…不死じゃないの。ちなみに鉈で首を落とされても死なないけど、木の杭を心臓に刺したら死ぬのよ。」 彼女の薪を削るスピードが一層速くなった。 「っちょっと待って!…いったん落ち着こうか!」 彼女の手から鉈と先の尖った薪を奪い取り、彼女の手が届かない高さに掲げる。 「っなんでよ!あなたが私のことを好きじゃないなら、あなたを殺して私も死ぬわ!」 彼女は僕の身体にしがみつき、薪を奪い返そうともがいている。一度死にかけた命だが、こんなことで終わる僕と彼女の人生なんて馬鹿げている。恋なんてよくわからないもので死ぬなんて、シェークスピアも「そんな物語は書きあきた。」とうんざりするような悲劇ではないか。 「…っ待ってくれ!それじゃ僕も君もっ、…あまりに可哀そうじゃないか。……っとにかく!…僕に時間をくれよ!」 泣きながら僕にしがみついて暴れる彼女の動きが止まった。 「……時間?」 「…っそうだ!人間にとって恋愛は、もっと…」 僕はそこまで言いかけて、一度息を整えた。先ほどの騒々しさとは打って変わり、うす暗い部屋は水を打ったような静謐が戻った。恋愛を語るほど、僕は恋愛に関する知識や経験に精通していない。しかし、ここで何とか彼女を説得できなければ、僕も彼女も死んでしまう。 彼女に届くように、言葉の一音ずつに僕の神経を集中させた。声を振り絞るように僕は続きを語った。 「もっと時間をかけて…大事に愛を育むものなんだ。…だから、今はまだ、僕は君のことが好きなのかわからないけど、君のことを心から好きになるための時間が欲しい。」 赤黒く淀んだ彼女の瞳に、ルビーのような緋色の輝きが戻った。 「そうね!私もちょっと急すぎたかもしれない。やっぱり恋愛にはゆっくりと時間をかけなくちゃね。私たちヴァンパイアには、まだまだ時間があるんだもの。」 「わかってくれて何より…うん?今、私たちって言った?」 「ええ、私たちヴァンパイアはイモータルだもの。血を吸えば若返るし、ちょっとやそっとのことなんかじゃ死なないわ。」 「…僕もヴァンパイアなの?」 「ひろきの傷を癒すために私の血をあげたわ。もちろん傷を癒すのが目的だから、大した量は注いでないけど…。そうね、約2割くらいがヴァンパイア、8割がにんげんってところかな。」 「2割ヴァンパイアか、打者の打率としては低い方だけど…、それは実際のところ、人として生きていけるレベルなのか。」 「多分、日中でも外を出歩けるけど、しんどいだろうからなるべく控えた方がいいと思うわ。それに血を吸わなければ生きていけないってわけでもないし、さっきみたいにひろきの姿は鏡にも映るわ。」 …どうやら人としての機能はそこまで失ってないらしいが、コルアにも確証はないらしい。いろいろ確かめてみたいことは山ほどあるが、それより先にすることがある。 「さっきから驚いてばかりだったけど、コルアに感謝を伝えるのを忘れてた。僕が死にかけていたところを助けてくれて、本当にありがとう。」 感謝の言葉とともに、彼女の華奢な細い手を握った。コルアの顔を見ると、真っ白なはずの彼女の顔が、緋色の瞳に負けないほど、首まで真っ赤に変わっている。 「どうした…。具合でも悪いか。僕に血を分けてくれたからか。」 「っ違うよ!大丈夫だから!」 握った手を放してやると、コルアはそのままぎこちない歩き方で「何か温かいものを淹れてくるわ」と出て行った。 部屋はまた静けさに包まれた。この部屋には、先ほどまで僕が寝ていた天蓋付きの大きなベッドと、ほこりがかぶってほぼ見えない鏡の付いた化粧台(コルアは鏡に映らないから必要ないのだろう)、あとは暖炉の傍のタンスの上には、骨董品のような壺や地球儀などが並んでいる。この部屋唯一の木製の窓をあけると、外から柔らかな温かい日差しが差し込んだ。 「っつ!?」 夏場日焼けしたときに入る風呂のように、ピリピリと肌が痛んだ。先ほどのコルアの話を聞いてもなお、まだ少し夢うつつだった脳髄に、これが現実であることを日光の痛みが神経を通じて訴えかける。しばらく痛みに耐えると、あまり痛みを感じなくなった。湯船に浸かると、最初は全身痛むが、慣れてくると普通に肩まで浸かれるように、コルアの言う通り、慣れれば問題なく日中でも過ごせそうだ。 冷静になってみると、奇想天外なことに巻き込まれたものだ。少し病みがちな少女のヴァンパイアに助けられ、僕も2割ほどヴァンパイアになった。それでもこうして生きていられる素晴らしさ。生きてさえいれば何とでもなると、楽観的に捉えられるのは僕の長所だ。 木製の扉が軋む音がし、コルアが温かい紅茶の香りと柔らかな湯気が立ち上るマグカップを二つ持ってきた。 「ありがとう。アールグレイ?」 「そうよ。コーヒーの方がよかったかしら。でも、イギリスではコーヒーより紅茶の方が美味しいわよ。」 白色の二つのマグカップには、アメ色のアールグレイティーが注がれていた。だが、何故だか片方のコップの中身だけ、少し色が濃くみえる。 「色が少し違うみたいだね。」 「……片方は濃く煮出したのよ。せっかくなら、濃い方を飲んでもらいたいわ。」 「うーん、僕は薄い方が好きだから、こっちをいただくよ。」 渋いのが苦手な僕は、薄い方の白いマグカップを受け取ろうとすると、「ひろきはこっちを飲んでっ!」と慌てた様子で、反対側の濃い色の紅茶を手渡された。中をよく覗くと、コップの底に少し紅黒い何かが沈んでいる。 「…何か入れた?」 「何も入れてないわよ。」 「でもなんか沈んでるんだけど」 「私の愛の沈殿かしら。」 「いや、意味がわからないんだが…。」 一口だけ口に含んで飲み込むと、香り高い紅茶の風味と、苦い薬のような変な後味が口内に広がった。程よく温かい紅茶を飲むと、気持ちが落ち着く…はずが、何故だか無性にドキドキと鼓動が激しくなってきた。 「ほれ薬かなんか入れた?」 「ご名答よ。一気に飲み干しちゃってね。」 「絶対やだ。飲まない。」 「だったら仕方ないわね。飲まないというのなら、無理やりにでも飲ましてあげるのがあなたのためよ。」 「だから飲まないってば。僕のためじゃなくて、どう考えても自分のためじゃないか。」 「だったらこの世界のために飲んで!」 「僕がこれを飲んだところで誰も救われないよ!」 コルアは僕に無理やり紅茶を飲ませようと、僕の身体にしがみついて、腕や首元を引っ張ってきた。 「っこらこら、危ないからやめなさいっ!」 「ぜーったい!飲んでくれるまで離さないからっ!」 無理な体勢でしがみつかれてしまい、暴れるコルアを押さえつけようとしたが、うまく抵抗できない。紅茶をコルアの手の届かない頭上高くに持ち上げると、彼女は僕のコップをもつ右腕にしがみついた。コルアの体重はおそらく40キロ程しかないだろう。しかし、全体重を僕の右腕にかけてきたせいで、中身の紅茶を思わずこぼしてしまった。パシャっと音がし、銀色の頭、白い肌、薄紅を塗ったような口元、無い胸、ようするにコルアの全身に紅茶をぶっかてしまった。 「うわっ、ごめん。大丈夫か?」 「…………………すき。」 「…はい?」 「ひろき大好きっ!!」 コルアの緋色の眼は、ピンク色に変わっていた。体にかかるだけでも、ほれ薬の効果があるらしい。不意にコルアに思い切り飛び掛かられて、そのままベッドの上に押し倒されてしまった。 「っちょっと、落ち着けって!」 全然、全く持って僕の言葉はコルアの耳に入っていない。彼女は僕の首元に何度もキスしてきた。彼女の脇腹を抱えて、無理やり引き離そうとするが離れない。 「っひゃうっ、そんなとこ触ったら…ダメ///」 「変な声出すな!いいから離れろ!」 勢いをつけて何とか引き離した。また抱き着かれる前に、急いで部屋から飛び出した。 「まって、いやだよ…。おいてかないで。」 部屋からは出れたものの、屋敷の中は広かった。階段を駆け下り、外への出口を探していると、おぼつかない足取りでコルアが追いかけてきた。 「わたしのひろきなんだからぁ。ここにいなきゃだめぇ。」 「お前のひろきさんではありません。ここにいなきゃダメな理由もない!」 でかい扉が見える。おそらく出口へ続いているのだろう。開けようとしたが、持ち手の部分が鎖でグルグル巻きにされている。鎖を何とか外そうと試行錯誤していると、夏の暑い日に遊園地のお化け屋敷に入った瞬間のような、ゾクゾクっとする冷気を背中に感じた。 耳元で囁く氷のような冷たい声が聞こえた。 「逃がさないわよ…ひろき。」 「うわぁっ!」 背中におぶさるように、コルアが僕の首元に腕を回してきた。もう駄目だと思った瞬間、なんとか逃れようと必死にもがいたことが功を奏し、鎖が外れてドアが開いた。 温かい夏の日差しが、石畳の冷たい部屋の中に入り込んだ。日の光が僕の肌をジリジリと刺すように焼く。 「ギャアッッッ!」 真後ろから断末魔のような悲痛な叫び声が聞こえる。完全なヴァンパイアであるコルアが日の光から受ける痛みは、全身を業火で焼かれるような想像を絶する苦痛だろう。 コルアを扉の傍に置き去りにして、僕は何とか外に這い出した。 振り返ると、コルアの身体からは蒼い炎が発し、彼女の身体を燃やし尽くそうとしていた。彼女の美しい白い肌は、ぼろぼろに焼けただれ、細い手足は今にも崩れ落ちそうだった。 それでもなお、彼女は僕のいる外側へ歩を踏み出そうとし、ふらふらと三歩ほど進んだところで崩れ落ちた。四つん這いになった彼女は、僕の方を見上げ、救いを求めるように手を伸ばした。 「いか…ないで…。」 太陽に容赦なく照らされ、彼女の顔がはっきり見える。彼女は泣いていた。大粒の涙をいくつも零しながら、今にも消え入りそうな悲痛な声で、僕の名前を呼んでいる。僕はこれ以上、彼女の無残な姿を目にしたくなかった。 屋敷とは反対の方角の遥か高みで、ジリジリと燃えながら高みの見物をする太陽を僕は仰ぎ見た。冷や汗と温かい日光のアンビバランス、二つの混ざり合わない感情の葛藤に、度し難く不快な気持ちになった。僕は太陽に向かって、愛着と、恩義と、拒絶と、諦めとがごちゃごちゃに混ざった声で叫んでいた。 世界には、僕以外には誰も歩むことができない唯一の道がある。その道はどこに続いているのか、正しい道なのか、間違った道なのかなんて、きっと誰にもわからない。 あの時、僕には彼女を助ける道と、見捨てて逃げる道の二つ選択肢があった。今考えても、その行動がよかったかはわからないけれど、僕は後悔していない。  気が付くと僕は、燃え尽きようとする彼女を抱えて、屋敷の中に飛び込んでいた。彼女の身体から発される炎を抑え込むように、僕の身体でしっかりと抱きしめ包み込んだ。  しばらくすると蒼い炎は完全に消え去った。 「コルア!死ぬなっ!生きてくれよっ!」 涙の跡が残るコルアのまぶたがゆっくりと開き、緋色の瞳が僕の顔に焦点を合わせた。 「戻ってきてくれたんだ…。ありがとう…。」 「こんなことで、命の恩人に死なれたら寝覚めが悪いだろうが。」 コルアは可愛らしい笑みを浮かべ、「ちょっとだけゆっくり休みたい」といって、再びまぶたを閉じ、焼けこげてしまった体の修復に集中した。彼女の華奢な身体を抱えてベッドまで運んでやる。 窓を眺めると、ヴァンパイアが本当に滅してしまうほどの、滅入るような暑い夏の日差しは先ほどよりも少し柔らかくなっていた。 コルアは僕を追いかけて、その結果死にかけた。正直、僕は彼女を助けるかどうかを迷った。助けた結果、これからの僕の人生は、彼女によって大きく影響されてしまうだろうことを考えると、少し気が重いようにも感じる。しかし、やはり彼女を助けるべきだったし、助けてよかったと思う。 夏の日差しは、夕暮れとともに消えかかり、涼しい風が窓から吹き込んでは銀髪の美しい髪をゆらす。彼女の穏やかな寝顔を見ると、不思議と僕の心は凪いでいた。
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