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三人の夢、みんなの夢
さっきまでなにもなかった場所。
一か所だけ濡れていなかった場所。
その場所にふと、白くて細い二本の足が現れた。
そして足元には可愛らしいサンダル。俺はそれに見覚えがあった。
雨の勢いが弱まる。
俺はゆっくりと顔を上げた。
「……風花?」
「いつ気づくかなと思っていたんだけど」
風花は前髪から滴り落ちる雫を手で拭った。
カーディガンにロングスカート。
ちょっと眠たそうな愛らしいたれ目が優しく俺を見ている。
風花だ。
死んだはずの風花がいる。
頭の中をいろんなことが一気に駆け巡り、上手く言葉を紡ぎ出すことができない。
「智くん、まず立ち上がりなよ」風花が手を差し出した。
俺はそれを掴む。ちゃんと触れる。風花がここにいる。
「……なにがどうなっているんだ?」
「んーと、まず智くんが見つけられなかったのは私が透明だったからです」
「透明?」
「そう透明。私から話しかけると、どうやら見えるみたいだけどね」
――じゃあ私は透明だから
透明って傘のことじゃなくて、風花のことだったのか。
「……そんなのわかるはずがない」
「だよね。ちょっと意地悪しちゃった」
俺はその華奢な両肩を抱き寄せた。
雨でひどく濡れているけれど、とても温かい。
「ちょっと痛いよ、智くん」
俺はその抗議を無視する。
風花の匂いがする。お日様の匂いだ。
「……どうして、俺に会いに来てくれたんだ?」
「一言だけ言いたかったの」
「なにを?」
こんなふうになってまで風花が俺に言いたかったこと。
風花は俺の耳元で優しく囁いた。
「きっと智くんのことだから後悔していると思います。演技の練習ばっかりで私にあまり構ってくれなかったから」
ああ、後悔しているとも。
「――でもそれはいいの。私はこれからも智くんに頑張ってほしいの」
「頑張る? なにを?」
「もちろん演技をだよ。智くんの夢。私の夢。その夢を、叶えてください」
俺の両腕を引きはがすと、風花は真剣なまなざしで俺を見つめた。
風花のいなくなった世界で俺が夢を叶える。
そんなの無理な話だった。
「わかったよ……風花がいなくても、俺は大丈夫だよ。ちゃんとやるよ」
もうきっと役者なんて目指さない。
だからこれは、俺の最後の演技だ。
風花が無邪気に笑う。
「うそつき。やっぱりまだまだだなあ。智くんは嘘をつくとき、絶対に目を合わせてくれないもん」
「……やっぱり俺には才能がないのかな」
「かもね」
「じゃあしょうがないよな、俺には無理なんだよ」
俺が言い終わると風花は優しく包み込むような目をした。
「ねえ智くん、私の最期のわがままを聞いてください」
「……最期だなんて言わないでくれよ。またこうやって話せ――」
「智くんは責任をとってください」
「責任?」
「そう、責任。夢を叶える責任。もうきっとさ、智くんの夢は一人のものじゃないんだよ。私の夢もいつの間にか同じになっちゃったんだもん。智くんが役者として羽ばたく。これが今の私の夢。最期のわがまま。だから、智くんは私のために、私の夢を叶えてください」
「俺が、風花の夢を叶える?」
「そうだよ。たぶん夢なんてさ、どうせ一人じゃ叶えられないんだよ。見えないところでいろんな人が奇跡みたいに関わり合って、それでやっと叶うんだよ。だからさ、智くんは私と一緒に夢を叶えてよ」
私と一緒にって。
そんなの、めちゃくちゃな話だ。
だって風花はもう。
「……でも風花はもういない。俺一人じゃ」
「――ううん、智くんならきっとできる。それにさ、二人の夢ならきっと叶う確率も二倍だよ」
「なんだよ、それ」
「それでね、どんどん増えていくんだよ。みんなで智くんの夢を叶えるの」
「みんな?」
「うん、智くんは一人じゃないんだよ」
俺は一人なんかじゃない?
そうなのだろうか。
風花がいなくなったのに、一人ぼっちじゃないのだろうか。
風花が見えないところから見ていてくれる。
そうして風花の夢を叶えるために俺が演技をする。
それが一人じゃないということならば。
そう思うとすっと晴れやかになった気がした。
そういうのも悪くないなと思った。
それに、風花の方が俺より頭がいい。
きっと風花の言うことが正しいのだ。
俺は風花のまっすぐな目を見つめ返す。
「わかったよ。約束するよ、風花。俺は夢を叶える。俺と風花、二人の夢を」
「お、今度はちゃんと目を見て言ってくれたね」風花はおどけた言い方をした。
「ああ、嘘じゃない」
「……うん。それでこそ智くんだ。――あ、智くん、そろそろ時間だよ」
時間?
俺は慌てて腕時計を確認する。
十九時まであと一分しかない。
「……やっぱり行かなきゃダメなのか?」
「うん。死んじゃってるからね」
風花はそれでも笑っていた。
それが風花だった。
「……じゃあ、見ててくれよ。俺、ちゃんと叶えるからな。二人の夢、叶えるからな」
「もちろん。ちゃんと見てるよ――ああ、それと智くん」
「なんだ?」
風花は最期に、とびっきりの笑顔でこう言った。
「一緒にいてくれて、ありがとう。大好きだよ」
「ああ、俺もだよ。愛してる」
「……うん。じゃあ行くね」
そして風花は笑顔のままゆっくりと透明になって、風のようにふんわりと見えなくなった。
さて、どうしようか。
まずは劇団に頭下げてもう一度練習を――
「ねえ、キミ」
そのとき、俺が話かけられているとは思わなかった。
「キミだよ。キミ」
俺は振り向いた。
五十歳くらいの髭の立派なおっさんが傘を差して立っている。
どっかで見たような顔だ。
「なんですか?」
「キミ、いま演技していたろ?」
「はい? 演技?」
ああ、風花に嘘をついたことか。
「そうそう。僕はね、ずっと見ていたんだ。キミがこんな誰もいない中で、ずっと演技しているのを」
……そうか。この人に風花は見えていないのだ。
「僕はこういうものだ」
差し出された四角い紙片に目を落とす。
それはカメラがイラストされた一風変わった名刺だった。
そしてその肩書に目を移す。
――映像作品監督・脚本?
俺はもう一度おっさんの顔をよく見た。
それはテレビで見たあの顔だ。さっき撮影していたドラマの監督だ。
「……有名な監督さんが俺になんの用事でしょう?」
監督は口角を吊り上げる。
「さっきの演技、素晴らしかった。最初はちょっと変わった人かと思ったんだけどね。僕にはわかったよ。まるで人がいるように見えた。あれはちょっとやそっとの演技練習じゃ出来ないことだ。だから――どうだい。僕の作品にぜひ出てくれないかな」
監督が俺に手を差し出す。
さっき俺が掴んだ手とはまったく違う、熊みたいな手だった。
まるで人がいるように?
当たり前だ。だって風花がいたのだから。
それが俺の演技に見えたのなら、これはズルだ。
「――スカウトってやつですか」
監督はにっこり笑う。
「……でも俺才能ないですよ。何年練習してもまともに仕事をもらったことないし、さっきも女の子に嘘を見破られちゃいました」
「女の子? ……よくわからないが、さっきの演技は本当に見事だった。見えないことで見えてくるものがあるんだと気づかされたよ。僕もまだまだだ」
「だからアレはズルなんですよ。俺の本当の演技じゃないんです」
「まあとにかく、僕はね、僕の夢をキミと一緒に叶えたくなったんだよ。どうか、お願いできないかな?」
夢を一緒に。
そこ言葉は俺の胸に突き刺さった。
俺の覚悟を決めるには充分過ぎる言葉だった。
それは誰かとも約束したことだったからだ。
風花と俺の夢が、さらに広がっていく。
なぜだか俺は笑っていた。
俺は監督の手を力強く握り返す。
「……わかりました。叶えましょう。三人の夢を」
「三人の夢?」
「いえ、すみません。こっちの話です」
風花はいなくなった。
それでも俺は演技をする。
みんなと一緒に夢を叶えていく。
真っ赤な傘を確かめるように強く握りしめて空を見上げた。
いつの間にか雨は、止んでいた。
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