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一本と一匹の出会い(前編)
「ああ、どうすればいいのだ……なんでワシがこんな目に」
賽銭箱の目の前に転がっている傘は、誰に聞かせるでもなく独り言ちた。
この奇妙な傘――アン・ブレラ――はひとりぼっちだった。
真っ黒で無駄に大きく、そして――喋る。口もついていないのに喋り続ける。
田んぼと畑ばかりのなかに、ぽつんと建っているのは赤い鳥居と一対の狐の像。そのうち一匹は子狐を背負っている。
鳥居から賽銭箱までの距離は二十メートルほど。
そんなごく小さい稲荷神社の中。
アンはその賽銭箱の目の前に、誰の目にも止まることなく放置されているのである。
無論閉じた状態だった。
アンは基本的に人間なしでは何もできない。
誰かに拾われないと永遠にひとりぼっちで寂しく過ごすことになるのだが、神社の中には誰もいない。
鳥居の外を見やればどうやら多少は道行く人がいるようだ。
しかしこの小さな稲荷神社なんかに誰も見向きはしない。
要するにアンは困り果てていた。
アンは気づいたときにはここにいて、それからもう六時間は経っている。
正確な時刻はわからないがお日様は高く昇っている。
暑い。なんだって真夏である。
「……誰も来なかったらどうしよう」
アンの不安はエベレストより高く、マリアナ海溝より深くなっていた。
飢え死にすることはないが、このまま拾われない事態だけは避けたい。
寂しくて死ぬことはあるかもしれない。
ああ人間よ、お願いだから誰か――
「おや、お困りのようですね」背後から声。賽銭箱の方である。
「ああ、助かっ――」た、と言おうとしてアンは気がついた。
アンのみてくれは何の変哲もないただの傘である。
それに話しかけるとはどういうことか。
アンが話せると知っている人物なのか?
誰なのか確認したいが、横倒しになっているアンからはよく見えなかった。
だが兎にも角にもこの機会を逃す手はない。
「お主……何者だ?」
「あたし? あたしはこの神社の者だけれど」幼い女の声。
「この神社の? ……ああ、だから裏手から」
「そういうこと。で、どしたの?」
「おう、困っておる。ワシを拾ってくれ」
単刀直入にお願いする。アンはもう疲れ切っていた。
「拾う?」
「そうだ。ワシは誰かに拾われてはその人間と一緒に過ごす、そんな生活をしているのだ」
「んーじゃああたしが拾っても仕方ないじゃないかな?」
「……どういうことだ?」
それはですね、と声の主はアンを持ち上げ石突を土の地面にぶすっと刺すと地面とは垂直に立たせた。
そしてその姿にアンは目を見開いた。
上は白衣に下は緋袴。そして草履とくれば巫女装束だということはわかる。
そして顔立ちはやはり幼く、やや吊り目で瞳は琥珀色。鼻や口は白く小さい。
身長は百四十センチもないだろう。
しかしそれらはどうでもいい。
問題は頭上と腰にある。
その小さな形のいい頭には、瞳と同じ色の髪の毛とそして――ちょこんと二つの獣耳が鎮座していた。
腰にはこれまた瞳と同じ色の丸い尻尾。
どうみても普通の人間ではない。
「――お前、狐か?」
「ピンポン、ピンポン、大正解! お狐さんこと、コンちゃんなのでしたー!」
コンはくるくるとその場で回りながら笑って見せる。
鋭い牙がちらりとこちらを覗いた。
お喋り傘とお狐さまの、奇妙奇天烈な出会いの瞬間だった。
「……やはり人間じゃないのか――まあいい。ワシとて人間ではないのでな。ワシはアン・ブレラ。傘だ」
アンはとりあえずコンに倣って自己紹介なんかしてみる。
「それは見ればわかるよ。傘が喋るっていうのは知らなかったけれど」
「今は物が喋る時代だからな」
「ふうん。なんかよくわかんないけれど。まあいいよ。で、アンさんって神様かなにか?」
「……アンさんだとなにかの兄貴分みたいだな。いや九十九神の類ではない。ただのノーマルな傘だ」
「そうなの?」コンはアンの上から下までじろじろと視線を動かした。
「むしろお前が神様じゃないのか?」
「あたし? ちがうちがう。よく勘違いされるんだけどね、稲荷神社の神様は狐じゃないよ。狐はどちらかと言うと使い魔みたいなもんだね」
アンは自分のような不思議な存在に、人間以外の存在に、久しぶりに出会った。
奇妙な者同士もう少し喋りたい気もするのだが、それはともかくとしてアンは人間に拾われなくてはならない。
コンが神様の使い魔だと言うならば、答えは簡単である。
「ところでだ。なんかこう、呪文とかでびゅーんとワシを移動できないか? 人間のいるところに」アンはゆさゆさと自分を揺らした。アンにできる最大限の仕草である。
「びゅーんと? 移動? だから神様じゃないんだってば」
「じゃあワシを持って行ってくれるだけでいい」
「あーそれは無理」コンは肩を竦めるようにした。
「なぜだ? 鳥居の外に通行人はいる。そいつらに手渡してもらえばいいんだ」
「だからそれが無理なんだってば。力にはなってあげたいんだけれど」
アンは語気を強める。「どうして」
「――だって私、鳥居の外から出られないもん。人間には見えないし」
ひゅうっと風が吹き抜けた。
コンは神社から出られない。神の使いだから。
仮に出られたとしても人間に見えないのでは意味がない。アンを渡すことが出来ない。
つまるところなにも状況は変わっていない。
ただ一本が、一本と一匹に増えただけ。
アンは途方に暮れた。
「あ、いまこいつ役に立たないって思ったでしょう」コンはそのちょっぴり細い目でアンをじろりと見た。
「……そんなことはない」
「ぜったい嘘」
「傘は嘘をつかない」
「普通の傘はそもそも喋らないからね」
もう手詰まりだった。
セミの声が妙にうるさく鳴き始める。
空は相変わらず青く高く、そして晴れ渡っていた。
「――でもきっとあたしが出てきたことには意味があります」コンは空に向かって人差し指を立てた。
「意味がある?」
「そう。あたしは基本的にぼんやりとこの神社を見守っている存在なの。だからあたしが顕現したことにはきっと意味がある、はず」
「はずってなんだ」
「……それがあたしにもよくわからないの。そういうのは神様が決めることだから。 あ、そういう目で見ないで。やめて! ……仕方ないじゃない。使い魔なんだから」
コンはどうにも頼りない。
「じゃあ今まではどういうときに出てきたのだ?」
「誰かに必要とされて、それを叶えることが出来れば顕現するみたい」
「ではこの場合で言うと……」
「アンさんを人間の元に届けること、かな」
「でも鳥居の外に出られないではないか」
「だから、きっと別の方法があるはずなの!」コンはぷい、とそっぽを見てしまった。
必要とされれば出てくる。
だからきっとコンにもなにか出来るはず、という論理。
アンが雨を防げるように、コンもきっとどうにかしてアンの役に立つはずということだ。
「――コン、お前は何ができる」
「なんか面接みたいで嫌だなあ」
「お狐に面接なんかないだろう」
「まあそうだけれど。なにって……なんだろう。狐に関係あることは大抵できるよ」
「狐に関係あること?」
「えーと、つまり走ったり、食べたり、狩りをしたり……?」
どれも役に立ちそうになかった。
「それ以外でなにか出来ないのか」
「あーひどい言い方! そういうアンさんだって何ができるの」
「ワシは雨が防げる。傘だからな。まあもっとも人間に持ってもらわないと仕方がない」
「この天気じゃなにも出来ないじゃない」コンは唇を突き出した。
「そうだが……」
アンは傘だ。基本的に雨が降らないと役に立たない。
それは自明のこと。
「……あ、そうか」コンはポンと手を鳴らした。
それに合わせるように耳がピンと立つ。「――そうか、じゃあ雨を降らせればいいんだね?」
「……そうだな、雨が降れば人間に拾ってもらえるかも」アンは言いながらコンの言葉を反芻した。
振らせる? 雨を?
コンは何を言っている?
「じゃあちょっと待ってね。いま降らせるから」
「おいおい、それが出来たら苦労はしない――」
コンは左手をお腹の前でぎゅっと握り、空に向かって右手を挙げて静かに叫んだ。
「――狐の嫁入り」
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