一本と一匹の出会い(後編)

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一本と一匹の出会い(後編)

「――狐の嫁入り」 そう唱えた途端にコンの周りが青白くぼんやりと光る。 その光は薄く淡く、そして力強くゆっくりと揺れている。 そして次の瞬間。 パラパラと音が聞こえ始めた。 雨だ――天気雨だ。本当に雨が降った。 アンは驚きを隠せずに言う。「――こんなの普通の狐には出来ないぞ」 「へへっ。お狐様ですからっ!」得意気に笑うコン。 「というか呪文使えるじゃないか」 「だから狐に関係あることは出来るって言ったでしょ」 狐の嫁入り。 だとしても狐が雨を降らせることが出来るなど、誰が想像すると言うのだろう。 「これで一件落着、かな?」 「うむ、ありがとうよ。これでワシを拾ってくれる者が現れるだろう」 コンはニコリとする。「うんうん、よかったよかった!」 「いっときはどうなることやらと思ったが……」アンは長い息を吐いた。 コンが鳥居の外を見る。 歩いている人が見える。どうやら急な雨に焦っているようだった。 心の中でコンは呟く。 ――ごめんね。仕方なかったんだ。 でもこっちに来れば傘があるよ。ほら、こっち。 ……あれ? 来ないな。おかしい。 次の人はどうだろう。 あれ? やっぱり来ない―― 誰も鳥居の中に入ってくる様子はなかった。 むしろ足早に通り過ぎてしまっている。 そしてコンは思い至った。 「でもさ、よく考えたら……」 「うん?」 「天気雨が降ったところでこの神社に入って来ないよね、そもそも」 「あ……」 その通りだった。 人間が入ってくる気配はない。 「どうしよう……」 アンの地面からピンと伸ばしたその背筋がぐにゃりと曲がったかのように思われた。 「んー。あたしに出来ることがあるはずなんだけどなあ」コンが雨に濡れた耳をカリカリと掻いた。 「『狐の瞬間移動』みたいなそういう言葉とか名前とかないのか」 「……あったらとっくにやっているよ」 少なくともそういう言葉をコンは知らない。 要するに一本と一匹は手詰まりとだった。 「……名前、と言えばさ」コンがペタンとアンの隣に座りながら言った。 「うん?」 「アンさんはなんでそんな名前なの? あたしは狐だからコンなんだけれど」 「ああ、海を渡った先にある国の言葉で、傘という意味なのだよ」 「ふうん、お互い安直な名前だね。それにしても異国の言葉か……」コンは遠くの方を見た。 「そうだ。ワシはこう見えて異国も渡り歩いているからな」 「……いいなあ。あたしもいつか外の世界を見てみたいな」 コンは神社から出たことがない。 だから異国のことなんてさっぱりわからなかった。 「――あ」唐突にアンが声を漏らした。 「どしたの?」 「……お主の呪文はなんというか……修行したりしなきゃ出来ないものなのか?」 コンは質問の意図がわからず首を傾げる。「いや、狐に関係あるものだったら何でもすぐに出来るはずだよ」 「そうなのか、便利なものだな」 「それがどうしたの?」 「いやな、異国の言葉でこういうのがあるんだよ」 アンはコンにその言葉を告げた。 「――それってどういう意味?」 「いいから、ちょっと空に向かって唱えてくれ」 一瞬だけ悩んだが、 「うーんわかったよ。やってみる」 そしてコンは先ほどと同じ姿勢をとると空に叫んだ。 「――れゔぉんとぅれっと!」 その瞬間、コンの尻尾に赤い火花が舞った。 それは音もなく静かに、雷となって空に吸い込まれていく。 そして空は沈黙した。 「これでいいの?」 「うむ」 「本当に? なにも起きな――」 「きたぞ」 突然神社の上空だけに夜が訪れた。 大気が揺れる。 寒い。寒いなんてものじゃない。さきほどまでの暑さが嘘のよう。 そして空の中にゆっくりと光が差してくる。 赤色の光だ。 この神社を中心として辺りに赤色の光が広がった。 夜の空に赤色の光。その光は揺れながらいくつもの層を作った。 ――それはオーロラだった。 何十層もの赤いカーテンが時にぼんやり時にくっきりと、荘厳な光を発しながら折り重なる。 そのゆったりとした光の動きはまるでコンの尻尾のようだ。 もちろんコンはオーロラを始めて見る。 「これは……?」 「オーロラという。別名レヴォントゥレット。フォックスファイヤー。――この国の言葉では狐火だな」 「狐火……あたしの火、あたしの光?」 「さよう。コンの光だ」 「……とってもきれい。なんだか、心の底からあの光に洗われるみたい」 「――ほんとだな」 それは誰もが心を動かされる代物で。 誰もが心を奪われる景色で。 誰もが心から願うような奇跡だった。 夜空に煌めく壮大なその光は神社の上空でじっと辺りを照らしていた。 そして一本と一匹はその奇跡的な空をずっと眺めていた。 ――やがて鳥居をくぐって人間が引き寄せられてくる。 あとは時間の問題だ。 「ありがとう。これで誰か通行人がワシのことを拾ってくれるだろうよ」 「どういたしまして! というか、あたしだけじゃどうしようもなかったけれどね。それにとってもいいものを見せてもらったよ。こちらこそありがとね!」 「ああ、たまにはこういう寄り道も捨てたもんじゃないな」 「うん。久しぶりに誰かの役に立てて良かったよ」 誰か、というか傘だけれどな。 ――そのあと二言三言交わすとコンは消えていった。 縁があったらまた会おうねと言い残して。 傘と狐の出会いとはなんとも不思議なものである。 アンは思った。 ワシらは確かに誰かの役に立つのだ。 たとえばこの言い表せない奇跡のオーロラのように。 たとえばあの天真爛漫なコンのように。 ワシもこれから必要とされる。役に立つ。 それはなんとも嬉しいことだろう。 アンはそんなことを胸に秘め、もう一度空を眺めた。 圧倒的で、不可思議で、神秘的な、コンが残したこの空をじっと見つめた。 ただし――このあと人間に拾われたのが更に八時間後だったことは、墓場まで持っていきたいアンの秘密になったのであった。
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