バグラチオン ~赤い反攻~

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 死ぬほど痛い。  まだ死んでいないのが不思議なくらい痛い。手指の爪に鋭く尖ったキリを打ちこまれ、爪を一枚ずつ剥がされていくような不条理な痛みに支配される。 「あんだよ、不景気なツラしやがって」  イワンが激痛にのたうちまわっていると、コンスタンティンがやってきた。 「オレらに景気のいい時なんて、あったかよ」 「ちがいねえ。こちとら、いつだって不景気よ。生きのびてるのが奇跡だ」 「なにが奇跡だ。死んだほうがマシだよ、どちくしょう」  イワンは右手で、左肘の丸みを押さえて呻いた。左肘から先はなにもない。切断面は赤黒く引き攣れて、醜悪な傷痕をさらしている。  ないはずの左腕の先が痛むのだから、たまらない。 「まだ痛いのか?」 「痛いに決まってるだろ」 「おかしなもんだな。もう、とっくに切っちまった腕が痛むなんてよぉ」 「どんだけ痛いかなんて、おまえにゃわかんねえだろうが」  イワンが口を尖らせると、コンスタンティンは乱杭歯を剥き出しにして笑った。 「わかるわけねえよ。ないものはない。ない腕は痛くなねえだろ」 「そいつで済めば、オレは高いびきで寝てらぁな」 「なあ、イワン。そいつは、気の持ちようってヤツじゃねぇのかい?」  心が弱いと言われているようで気に食わない。しょせん、他人事だ。イワンがどれだけ激痛を訴えても無駄なのだろう。 「医者が生きてりゃなあ。なんとかしてもらえたかもしんねえが」 「そうかあ? どんな医者にだって、ない腕の治療はできるもんか」 「うるさいぞ、コンスタンティン」 「オレらの命なんて虫けらと一緒だろ。どれだけ消耗したって、替えなんかいくらでもきくんだ」 「ちがいねえ」  コンスタンティン相手に馬鹿げた話をしている時だけ、気を失いそうになる激痛は少しやわらぐ。だが、イワンはそんなことを教えてやるつもりはない。  イワンもコンスタンティンも明日をも知れない身だった。  戦争をすると決めるのは、見たこともないどっかのお偉方で、実際の戦闘に駆り出されるのは、イワンたちのような金もなければ学もない、名もない市井の人々で。 「もうすぐ、始まんだろ。あーあ、こんなことなら腹いっぱい喰っておきたかったぜ」 「ああ。熱々のシチューが食いたかったな。塩漬け肉と黒パン、いや燕麦の(カーシャ)でもいい。とにかく、腹いっぱいになれば贅沢は言わねえ」 「それが贅沢ってもんだろ」  二人は顔を見合わせて力なく笑いあった。  彼らが生まれ育ったベラルーシは土地の大半が痩せた泥炭地で、寒冷な気候のため小麦は育ちにくい。代わりに見渡す限りのライ麦畑が広がっている。貧しい農民ばかりが暮らす土地は、世界戦争に否応なく巻きこまれていた。  1944年6月21日の夜だった。  ソ連領だったベラルーシは、三年前に始まった独ソ戦の結果、ドイツの占領地域となっている。  『バルバロッサ作戦』の名で知られるドイツによる電撃戦は、ソ連の首都モスクワまであと一歩というところまで肉薄したが、冬期の厳寒と泥濘のため、ドイツ軍の快進撃は止まっていた。押される一方だったソ連の赤軍もどうにかして踏みとどまり、徐々にドイツ軍を押し返すまでになった。  東部戦線におけるドイツ軍は、北方と南方が後退した結果、ベラルーシ地方を占拠するドイツ中央軍集団が大きく張り出した形になっていた。  1944年6月6日。  ソ連のスターリンの要請を受け、ノルマンディー上陸作戦が敢行された。米英軍の果断ない攻撃を受け、ドイツ軍は西部戦線に主力部隊を置かざるをえなくなった。櫛の歯が欠けたように手薄になった東部戦線へ、三年前の雪辱を果たすべく、ソ連軍が猛攻を仕掛けようとしていた。奇しくもバルバロッサ作戦の開始と同じ日に、新たな作戦の発動が決定した。
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