春子さんの気品

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春子さんの気品

 よろよろと夢遊病のようにマンション一室に帰宅した。途中で転ばなかったのが不思議なくらいおぼつかない足取りだった。 「……うぐ……」  一人になった途端、急速に疲労がやってきたのだ。くわえタバコの煙もどこか元気がない。そういえば件の森ビルでの切り子退治に、昨夜なんて学校から帰った途端に出張って大変だったことを思い出した。  夜明けなぅ。マンションから見えた花宮市の景観が、少しずつ朝日にライトアップされていく。どうして朝焼けの街はあんな、冷蔵庫で保存しておいたとっておきみたく別物に見えるのだろう。霜のついたコンクリの箱。ひと気ゼロ、まだ誰も手をつけてないから、きっとこの景色は俺だけのもの。 「………………ああ、眩しい……」  灰になって消えてしまいそうだ。  変質者でも出そうなくらい静かな階段を、足音を響かせて上がっていく。途中で上階から誰かが飛び降りてきた幻覚を見た。目を疑うが階下に死体、しかし瞬きの間に消えてしまった。 「…………」  亡霊か幻影か、思念の残照か何かなのか。分からないが、位置的に、落ちてきたのはたぶんうちの部屋からだ。 「そうか………春子さん、帰ってたんだな」  朝っぱらからお忙しい。玄関を開けるとそこに、麗しの叔母が待っていた。  おかえりなさい光ちゃん、ウフフ。  ええ、ただいまッス春子さん……。  少々記憶が曖昧なのだが、恐らく俺は死んだ顔のままリビングで食卓につき、春子さんが出してくれた癒しの源泉、あたたかい淹れたて紅茶を頂きつついくつか業務報告を済ませたはずだ。  春子さんと最後に連絡を取り合ったのは昨日、街なかであのドーム状の林を発見した時。応援を待たず俺は単独で突入し、中でタケルと会い、そしてあの憎き赤羽と出会ったこと。  為す術もなくやられちまったこと。目覚めたら狩人本拠にいて、そこで、赤羽が狩人の新人として扱われることを聞いた。  「ええっ?」とか「まぁ」なんてたおやかな相槌を交えながら、俺の話に熱心に聞き入ってくれた美しい叔母様。春子さんは優しい。マジ女神なのだ。  春子さんだって花宮市民なのだから、当然赤羽の話をした時はたいそう驚いていた。  そして――――ひとつだけ、ハッキリと覚えている。  あの憎きクソ野郎の話をしたとき。総括だ。あいつに、さんざんな言われようをして執務室を追い出され、俺がとてもとても腹が立ったことを話した瞬間、ずっと貞淑で淑女だった春子さんが一瞬 「――――は?」  なんて、笑顔のままで動きを止めたのだ。  人間って不思議。わずか一文字だっていうのに、その声から感じた印象はなんだか春子さん像から駆け離れたおっそろしい、喩えるならば特攻服着て口にバツ印のマスクを装備し、釘バットしょってカメラに中指立てて集合写真を撮影するアレ系女子のごとき声な気がしたんだ。  もちろんそんなもの、愚かでゲスで阿呆で不良ちゃんな浅葱光一の完全な錯覚で、ずずずと紅茶を一口すすって先を促した春子さんは、もとどおりの貞淑さなのだった。  ウフフ、そうだ光ちゃん。おかわりいかが? ウフフ。  いえ、大丈夫す。しかしちょっと眠いので、今日はこのまま休んでいいすか。  ウフフ………………そうよね、疲れているわよね。おやすみなさい光ちゃん。ウフフ。  ウフフ、ウフフ。リビングで穏やかに洗い物をしている音を聞きながら、俺は眠りに落ちていった。  ――――ウフフ。それにしても、あの赤羽が狩人ねぇ……ウフフフ――。
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