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雨のモノローグ
我ながらかわいげのない小学生だったと思う。
雨は、嫌いだ。
「…………」
傘の色は黒。辛気くさい空気にお似合いの、辛気くさい喪服色。
まったく小学生らしくない。
Lサイズの傘が右手に重い。かといって捨てるわけにもいかず、水たまりを踏み抜いて喜ぶ無邪気さもなく、その時の俺は帰って風呂に入りたいとしか考えてなかったんだ。
急ぎ足で歩いた。寒いのは嫌いだ。逃げ出したくなる。考える端から思考のすべてが湿気っていくようなこの錯覚。雨は大嫌いだった。
とっとと家に帰りたいってのに。
「……よう」
変質者に声を掛けられた。振り返ると、雨に濡れたオッサンがいた。
「どうだな少年。裾すれ違うも多生の縁と人間は言う。ここはひとつ、景気よくセカイセーフクでもやってみるというのは」
世界征服に興味はないか、と男は言った。
「…………」
電波。胡散臭いオッサンだった。雨の中、傷だらけ血まみれで、なのにエラソーに見下し笑いしている。
一目で分かる。こいつは悪人だ。とっとと切り捨てて風呂入りたい。
「制服が好きなの? 萌えるの? うぜぇ。きめぇ早く死ねバイバイ」
「ほう? はっはっは、なるほどなるほど。最後の最後にとんでもないハズレくじを引かされたか。うむ。日頃の行いがなせることだろう、何せ私は悪党だからな。自業自得というやつだ」
「…………」
謳った。
優雅に。
なんか自分に陶酔してるみたいに。
そうかこいつナチズムだ。あれ? ナルチズムか。
「ねぇオッサン」
「ダンディな呼び方をするな。紳士なのは確かだが」
俺は目を細めた。汚いものを見るように。
「……あんた、血だらけじゃないか。苦しくないのか?」
その悪党は、ボロボロだったのだ。ふざけた話。戦争帰りにしか見えなかったんだ。ヤのつく職業。しかも電波。間違いない。帰りたい。
「苦しいさ、痛いに決まってる。だがな、男にはプライドがあるだろう」
ナルチズムしたまま、男は笑った。
「そう……死ぬまでは倒れん。お前みたいな糞ガキの前で倒れてやるものか。倒れる時、そりゃ死ぬ時だけと決まってる」
まったく表情を変えないまま、べしゃり。前のめりで倒れ、水が跳ねた。
「……倒れたぞ、あんた」
「ああ、死ぬ。俺は死ぬ。もうどうしようもなく死に至る」
唐突に弱気だ。ヘンなオッサン。
「娘に会ったら伝えてくれ…………」
「なんて?」
「……」
「……」
「……」
「……何をだよ、早く言えよ死体」
「やめだ、中止にする。つまらん格言を残す趣味はない」
はぁ、と俺は譲歩する。
「助けが必要かよ?」
「いらん。無駄は好かん」
「ああそう。じゃーな」
ざっくりと見捨てる。
どうでもいい。
死のうが生きようが知ったことじゃない。本人がいらないって言ったんだから、いらないのだろう。
大嫌いな雨空を見上げる。
思考の端から湿ってく。
足が止まる。
灰色の街の片隅で、俺はボソリと呟いていた。
「……祈っててやるよ。あんたが天国に逝けることを、神様に」
男は最期に、嬉しそうに唇を歪めた。子供みたいな無邪気さで。
「ふん……クソ喰らえ、だ……」
そう言い残して、人生を辞した。
「…………」
俺もその場を去ることにする。
いきものの死を見るのは初めてじゃない。
慣れていた。
どうしようもなく冷めていた。
「はは…………くそ喰らえ、だってさ」
でも、それでも。
「……ヘンなオッサン……俺の前で死ぬなよ、ボケ」
視線が下がるのは堪えきれなかった、そんな、遠い昔のプロローグ。
雨の中。
面倒になった傘を投げ捨てる。
空の涙が降り注ぐ。
あの日何かを受け取って、俺はそれを綺麗サッパリ忘れ去っているのだと思う。
傷だらけ血まみれのオッサンはこう言ったんだ。
どこまでもエラソーな、魔王みたいな強気な笑みで。
――世界征服に興味はないか、と。
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