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香織は重い足をどうにか叱責して、心の中の決意を違えないよう懸命に階段を登る。
その原動力は恐怖と、悲しみと、怒りと、疲労。香織は酷く疲れていたのだ。
ごちゃまぜの感情に振り回されままならないことを嘆く気力さえなくなるほど、ただ疲れていた。
休みたかった。
終わりにしたかった。
十六歳の柔らかな心はどうしようもなく傷つけられ、摩耗し、悩みの中助けを求められず、これしかないのだと錯覚する。
午前授業を終えた校舎は静かで、掃除の行き届いていないホコリの積もった階段には香織の足跡だけが標のように残っていく。
ガチャ、と扉を開く。
人っ子一人いない屋上には澄んだ青空がどこまでも広がり、絶望した暗い表情の少女を拒むことなく受け入れた。
──私は今日、ここで息苦しいクソッタレな日々にサヨナラをする。
恐怖はあった。
生存本能は正常に働いていたが、それでも足を進めてフェンスに近寄る。
硬い金網をよじ登るために掴めば、カシャンとそれが揺れる音がした。
「君も飛ぶのか」
「っ」
突然──背後で声が聞こえ、香織は少し上げた膝をおろし反射的に振り向いた。
「良い天気だから、空に近づきたくなるのはわかるような気がするんだ。それはつもりかもしれないけれど」
誰もいなかった。
確かに誰もいなかったのに、振り向いた先には一人の男が立っていたのだ。
ひょろりとした長身痩躯の彼は黒い艷やかな髪を揺らし、機嫌のいい猫のように目を細めて笑う。くすんだ白いシャツにくたびれたジーンズ。
歳の頃は二十歳そこそこだろうか。
口元の黒子が印象的な男だ。
どこに隠れていたのかはこの際どうでもいいとしても、高校生には見えなかった。
高校の屋上にいるのはおかしい存在に、香織は返事を返せず黙ってフェンスを背に様子をうかがう。
肌が白くモノクロの彼は気にも止めずふらりと近づき、香織の目の前で首を傾げた。
「黙り込んでどうした? 舌を抜かれたのか?」
「……あ、あなたは……誰?」
「俺は水野」
「みずの?」
「そう。君は誰だ? 飛ばないならなんでここにいるんだろう」
「なんで、って……死のうと思ってる、だけ」
「へぇ」
尋ねられた答えを正直に言ったのは、最後くらい誰かに聞いてほしかったからかもしれない。
しかし香織が震える声で目的を告げたにもかかわらず、水野は日常会話の相槌となんら変わらないテンポで頷いた。
引き止められたいわけじゃないが、人が今から死ぬというのに全く動じないなんて……変な人。
無関心でもなく関心を持つでもなく、普通にそれで? と目で促される。
普通過ぎるからこそ異常かもしれない彼に、香織は不思議な安心感を覚えて気がつけば全てを話していた。
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