【一】 悪食の怪物

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【一】 悪食の怪物

 あれはまさに邪悪の化身、怪物と呼ぶに相応しい。(ねじ)けた枯れ木のようなおどろおどろしい姿、この世に蔓延(はびこ)る全ての邪悪を煮詰めたかのような恐ろしい濁り目。その緩慢な振舞いとは裏腹に獣の如き荒々しい力を持ち、勇猛果敢なる(つわもの)どもが束でかかっても傷のひとつすらつけられぬ。かつて誰かが語ったその話を、まだ子供であった若者は遠い昔のおとぎ話のように聞いていた。  時折ふらりと里に現れては人を、家畜を喰らう怪物。一昨年は真志蔵(ましくら)のじい様が、去年は新嶺(あらみね)の娘子が。噂に伝え聞いてはいたものの、若者の頭の中ではやはりどこかで絵空事のように感ぜられていた。しかしそれも今日までのこと。若者は現実に見た。かの邪悪を、地獄のただ中で狂ったように嗤う異形の姿を。  若者は振り返りもせずにただひたすら走り続ける。止まるな。絶対に止まるな。村に残してきた兄の叫ぶ声が耳元から離れない。最後に兄は何と言おうとしたのだろうか。途中から悲鳴に取って代わられたその言葉は。  隣村の明かりが見えた。もう少し、もう少しだ。都に使いを出してもらおう。おれたちではもうあれは手に負えない。誰か、誰かおらぬか。夜更けにすまない、起きてくれ。頼む、助けてくれ。誰か。  さて、一体どこからが夢であったのか、それはもう誰にもわからない。しかし、その必死の呼び声が何処にも届くことがなかった事だけは事実だ。隣村はこの惨劇に日が昇るまで気がつかなかったし、あの哀れな若者の草履と着物の切れ端は隣村よりもずっとずっと手前で見つかったのだから。  兎にも角にも、今、この場所にかの邪悪、悪食の怪物と呼ばれるそれは静かに佇んでいる。狂乱の時は過ぎ、奇妙に凪いだ面持ちの怪物は己が築き上げた地獄の景色に首を巡らせ、泥混じりの沼のごとく淀んだ視線をどろりと這わせた。 「——嗚呼、」  誰が聞くこともないその溜息は、満足とも嘆きともつかぬ。怪物は己の朱殷(しゅあん)に染まりしその(たなごころ)をじっと見つめ、徐に舐め取った。やがて怪物は虚ろな笑みを浮かべ、夜半の風に外套めいた襤褸布(ぼろぬの)をはためかせながら、いずこかへと跳び去るのであった。 *****  先の天帝璃猷(りゆう)を打ち滅ぼした燿舜帝(ようしゅんてい)の治世は既に四百七十年を数え、その間に殆ど全ての争いの火種は摘み取られていた。残る愁事(うれいごと)はかの邪悪、即ち悪食(あくじき)の怪物ただひとつと言っても過言ではない。この怪物は毎年冬至の頃に何処からともなく現れ、家畜や人を喰らって去っていく。それが何百年も繰り返されていたが、この数年は特に酷かった。村ひとつが丸ごと喰らい尽くされることも珍しくはなく、今年は冬至に入るより以前に嘉味屋(かみや)の半分が、そして今夜に至り西平里(にしひらさと)が丸ごと、悪食の腹へと落ちていた。  辺境を束ねる世主(せいしゅ)豊渡海(とよとうみ)家は数代に渡って悪食の討伐に努めていたが、邪神の加護を受けた怪物には人の力では到底敵わず、徒らに兵を失うばかりであった。 「西平里は全滅だそうな」 「豚の一匹さえも残っていないとか」 「もはや帝におすがりするしか」 「朱瑋(すい)親軍(しんぐん)に討伐の嘆願を」 「ああ、我らが一体、一体何をしたと言うのだ」  まだ夜も明けぬうちに報せを受けた近隣の村の人々は震え上がった。朝の市もそこそこに皆家屋に閉じこもり、帝の御座(おわ)す都、朱瑋のある南東に向かって平伏しただひたすらに祈りを捧げていた。  そして、そのように不穏な人里の様子を遥か遠くから眺める者があった。 「まだ、軍団は動かぬか」  それは当の悪食であった。怪物は山頂近く、真紅の花が咲き乱れる高木の頂に立ち、辺りの様子を窺っていた。怪物はひとまずの平穏を確かめると樹上から飛び降り、(ねぐら)へと向かう。腹が満ちれば眠たくなるのは人も怪物も変わらぬ道理だ。  怪物が塒にしているのは、深い山奥の小さな庵であった。斜面を掘った横穴を屋根と壁とで補強したような作りで、長らく放置されたゆえか荒れ果ててはいたが、雨風を凌ぐには充分だ。人里からも遠く離れていて、暫くはあの小煩い(つわもの)どもを避けることができるだろう。精鋭とは言えども所詮は人の子、どうにでも蹴散らし腹の足しとすることはできたが、だからこそ付き纏われるのは鬱陶しい。怪物は山林の中を転々としながら隠れ棲み、腹が減れば山の獣や手近な村を襲って喰らう。覚えている限りではもう三百年、そのようにして生きてきた。  悪食の怪物は人の理など持たずに生きていた。しかし人の理を知らぬ訳ではなく、人を喰らって生きることを好んで選んだ訳でもなかった。  実のところを言えば、この怪物は元々人であった。それなりの家に生まれそれなりの修養も積んだのだが、彼は人にはなれなかった。  どういうわけか、彼は生まれた時から常に強烈な飢餓と共に在った。生き物を生きたまま喰らうその時だけ、飢えた腹は満たされた。彼は表向きには気の利く心優しい少年に見えていたが、親兄弟に隠れて虫だの蜥蜴だのを喰らい続け、そしてとうとう十七の時、許嫁の女を山に連れ込みその(はらわた)を喰らったのを皮切りに彼は人となることを諦め、悪食の怪物へとその身を落としたのであった。  人を喰らった後、怪物の心は決まって満腹の喜びと耳にへばりつく断末魔の不快との狭間で軋んでいた。悪鬼のごとき振舞いを悔いる訳ではない。只々不快なのだ。人の命を一方的に終わらせることそれ自体は、薮蚊を叩くのと同じようにしか感じない。そして同時にそのことが、己は人ではないのだという事実を怪物に突きつけ、それが何よりも不快にして耐え難かった。  今この時も、怪物はまさにそのような心持ちであった。この淀みをやり過ごすには眠ってしまうのが一番だ。怪物は戸の外れた庵の入口をくぐろうと身を屈め、何の気なしにふと脇を見た。戸口の側には枯れかけたやまたづ( ・ ・ ・ ・ )が項垂れており、まばらに残った枯葉と一房だけ枝の先にしがみつく狂い咲きの白い小花がいかにも不吉な有様だ。そうなればもはや、花の香さえもが不吉に思えてくる。怪物は暫くその花を黙って眺めていたが、やがて首を振り、呆れたように独り言ちた。 「ひと息に枯れて仕舞えば良いものを、なんと往生際の悪い」  怪物はそのまま庵の中に入っていったが、すぐに小さな瓢箪を携えて戻ってきた。怪物は瓢箪の栓を抜き、中の水を一口含んで自らの口中を湿したのち、残りをやまたづの根元に空けた。どうせ寝ている間に腐れる水だ、瓢箪ごと駄目にせぬように捨てたまで。そのようなことが頭を過ぎったがそれも直に忘れ、怪物は庵の板の間に横になり、膝を抱えて勾玉のように丸くなると、やがて深い眠りに落ちた。
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