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【六】 陰と陽
怪物は花の香を思い出した。枯れかけた樹にしがみついていた、あの小さな白い花。確かに、その樹に水をやった。それは——その様子が、まるで邪悪の中にほんの僅か取り残された、己のようで——否、否だ。救おうと思ってのことではない。そのようなことを、この化け物が考える筈もないではないか。礼など要らぬ、疾く失せよ。怪物は叫んだ。しかしそれは傍から見れば肉の塊が唸りを上げるようにしか聞こえず、また木霊も木霊でその唸りの意を汲む様子はなかった。
「おんみのことは、知っている。ほかの木霊らが噂していた。しかしわちには、どうにもおんみが、そのような……」
木霊は言い淀んだ。怪物の頭の中にも、いつかの地獄絵図が浮かび上がった。木霊はあたかもそれを察したかのように怯えた目を一瞬向けたが、すぐに小刻みに首を振った。
「そのような恐ろしいことをよろこんでする化け物には、どうしても、思えぬのだ」
何を莫迦なことを。怪物は己の内で誰かが何か叫びかけたのを押し殺し、ひとつ目でせせら笑った。現にあの時も、村ひとつを食い尽くした後だったではないか。おれは喰いたくて喰っている。この手足を縛る忌々しい呪い札さえなければ、おまえも取って喰らってやるのに。睨みつけるひとつ目を木霊は控えめに、しかし真っ直ぐに見た。
「枯れ木のひとつやふたつ、放っておけば良かったではないか。助けるつもりでなかったのなら、なぜ水をくれた。それに」
木霊は怪物の色のない頰を撫ぜた。その顔は腐れた肉のように崩れて口も目も塞がれ、耳鼻があるはずの場所にはそれぞれ小さな穴がひとつだけ空いている。
「これは生きるを厭うた者のすがたじゃ。なぜおんみは、そのようになるまで苛まれている」
怪物は木霊の琅玕めいた眼を見ないようにした。それはさながら、覗いてはいけない鏡のようにも思われた。
「わちにはあの時、おんみが泣いておられるように見えた」
怪物の邪悪はもはや黙った。ひとつ目はじっと床の木目を見つめている。
「命を救われたからにはその御恩に報ずるべし。しかし、おんみは弱りきっておられる。その姿では碌々話もできぬ」
途切れがちにぽつりぽつりと語っていた木霊であったが、やにわに立ち上がり、それまでとは打って変わって決断的に宣言した。
「だから、これからすることはわちの身勝手じゃ。ゆるされよ」
木霊は怪物の背中に回り、手足に巻かれた呪い札にその神気を当て、いとも容易く破り捨てた。そうしてもう一度怪物の正面に屈み込み、その胸に両手を置く。
「わちの神気を、半分使いなせ」
割った芋でも分け与えるかのごとく、事もなげにそう言い微笑む木霊に、怪物は狼狽した。この木霊は正気だろうか。木霊の神気とはその心であり、身体であり、存在そのものだ。神々の僕たる精霊が、かくも下賤な怪物にその身を捧ぐなどということが、果たして許されるだろうか。否、否、否。そのような事があってならぬ。そもそも己はこのままここで朽ち果てるつもりであったのだ。
やがて目が眩むほどの光、耳を劈く轟音、全身をくまなく灼くような痛みが襲う。それらは全て幻ではあったが、怪物にとっては現実と同じに感ぜられた。己のそれとは真逆の気がなだれ込む。陰は陽に打ち消されていく。
望んでそうなったと言うのに、岩のように動かぬ体が恨めしい。怪物はその動かぬ体を強いて木霊を引き剥がそうとした。しかし、遅かった。ふと気づけば、木霊の手首を掴んだその手は節くれ立って血腥くはあったが見慣れた異形のものではなく、それは確かに人の手であった。崩れて肉の塊のようになっていた身体はとうの昔に捨て去ったはずの人の形を取り戻していた。
「なぜ」
痩せぎすの男は座り込んだまま、呆然と問うた。
「おれは、自ら望んで怪物に身を窶したのだ。其方がそこまでする由はない」
掴んだ手首は、片方しかなかった。片方の腕と脚とを失くした木霊は男の胸にふらりと倒れかかり、悲しげに答えた。
「わけならちゃんとある。おのれと同じく、棄てられてくるしい思いをする者を、そのまま死なせとうない」
何という独り善がりか。……とは、言えなかった。寧ろ、それは目の前に降りてきた救いの糸であるかのようにさえ思えた。
「これほどのことが、高々水一杯と釣り合うものか。木霊というものは損得の勘定もできぬか」
窘め、しかしまだ戸惑いの方が大きい。木霊は頰を膨らませ子供のように拗ねた。
「そんな難しいことは、わちにはわからぬ」
平たく潰れた着物の袖が痛々しく、男は眉を寄せた。あまりにも大きすぎる借りだ。
「おれは其方に一体、何をすれば良い」
「何をと言われても……あ」
木霊は突然、身を起こした。しかしひとつしかない膝では立ち上がることはままならず、ぐらついたところを男が慌てて支える。
「どうした」
「あれ」
木霊はひと筋だけ光の漏れる戸口の方を指差した。
「あの土袋をどうにかして避けねば、諸共に生き埋めじゃ」
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