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【三】 山の噂
『■■どの。なにゆえ、なにゆえです』
『済まぬ■■■。腹が減って、ならんのだ』
『ああ。私の腕が、腑が。どこへお遣りになった』
『おれには、どうすることも出来ぬ』
『返せ』
『済まない』
『私の、からだを、返せ』
『許してくれ』
黄昏時、眠りから覚めた怪物は遠くに木霊のざわめきを聞いた。何やら酷い夢を見ていたような気がする。ふらつく頭を押さえ、怪物はのっそりと起き上がった。
「とうとう軍司が動かれたそうな」
「軍司の赤蜂。按座の乱をお鎮めになった、あの赤蜂か」
「先の戦では森をまるごと焼いてしまわれたとか」
「よもや悪食諸共、山ごと薙いでしまわれるのでは」
次第にくっきりと聞こえるその噂話に苛立った怪物は庵の戸のない戸口に立つと、側の柱を殴り嗄れ声を荒げた。
「黙らぬか木霊ども。軍司の前におれに焼かれたいのか」
山の大気は怒れる邪気にびりびりと打ち震え、庵を取り囲んでいた木霊らはすわ大変と蜘蛛の子を散らすように逃げていった。怪物は舌打ちし、一匹二匹くらいは取って喰らわんと外へ踏み出して、途端に立ち眩み、後ずさって頭を柱に寄りかからせた。
怪物はしばらくそうして立っていたが、やがて巨きな肩を揺らして笑い出した。
「帝の親軍、上等だ。三百年もの間、指を咥えて見ておっただけの癖に。今更、今更だ」
怪物は空に向かって独り言ちた。あの忌々しい今上の帝は日輪の神の御子であり、かつてこの地を治めた龍神との百年に渡る激しい争いの末にこれを退けた手練れだという。その力をもってすれば、この身を蝕む邪神の討伐も別段不可能な話ではなかっただろうに。なぜ、なぜもっと早くに。
考えるうちに視界が霞み、耳鳴りがする。頭の奥で邪神が囁く。まだだ、まだ足りぬ。怪物の目はぐるりとあらぬ方向を向いた。
「ああ、腹が減った」
垂れ下がった襤褸を引き摺りながら、怪物は覚束ない足取りで山を降り始めた。そのうつろの目にはもはや何も映ってはいない。ぽつんと残された庵の側では、あの狂い咲きのやまたづの小花があやしげな風に揺れて三つ四つばかり、はらりと地面に落ちた。
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