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【五】 花の木霊
山奥の庵、否、それはすでに祠か、墓か。窓も戸口も塞がれた闇の中、悪食の怪物は縛せられ身じろぎもせずに横たわっていた。元より異形であったが、今の姿はさながら潰した豚から切り出した肉の塊のようで、それは怪物の死にゆく魂を映し出しているかのようでもあった。
怪物の中に在る邪神——いや、偽りなく言うならば怪物自身の本性は、叫び続けていた。肉を、魂を喰らえ。血を浴び、全てを破壊せよ。怪物はもはや抗うことにも疲れ果てていたが、幸か不幸か、今は国一番の呪い師らの手による封印がある。ゆえに暫くの間は罪を重ねずに済む。今ではすっかり小さくなってしまった怪物の心は、僅かばかりの安堵の中に在った。しかし一方でその怠惰を責める声がする。それもまた己の一部である。思えばこの三百年、この割れた心をどうすることも出来ず、怪物はただ己の激情に流されて生きてきた。もういい。もう、眠らせて欲しい。否、贖え。安息は更なる罪と知れ。煩い、止めてくれ。黙れ、黙れ、黙れ……。
「もし。……もし、そこなお方」
出口の無い迷宮に彷徨っていた怪物を闇へと引き戻したのは、微かな声だった。化け物を封じた地に人を近づける筈がない。悪戯好きの木霊どもとて、禁足の標を踏み越えてまで忍び込むとは考え難い。聞こえぬ筈の声を聞くは狂気の始まりである。さてはついに狂ったか。まだ理知のある一部はそのように考えた。他は相も変わらず千日手の堂々巡りを続けていた。
「もし、居られるか」
幻聴でも聞き違いでもない。今度ははっきりと声がした。罵り、あるいは逃げ惑い、あるいは耳を塞いで震えていた怪物の断片が俄かに重なり合い、声のした方に目玉を向ける。戸口の辺りだ。やがて外でがさりと音がしたかと思えば、土袋の僅かな隙間から、何かが庵の中にするりと這入り込んだ。怪物は何も答えなかったが、しかし代わりに闇が張り詰めた。
「ひ」
這入り込んだ何かは、その気配に息を呑んだ。それから長いこと、戸口で何事かもぞもぞと蠢く気配だけがあった。なんぞ、鬱陶しい。怪物は僅かに苛立った。こんな所に這入り込めるのは人では有り得ない。ならば木霊か。ついこの間散々に脅かしたばかりだというのに、余程喰われたいと見える。
「あ、あの」
呼びかけられたところで、そもそも怪物には返事をすることは出来ぬ。その顔——顔のあった場所には、今や暗い裏葉色の濁り目がひとつ残るのみ。怪物はほんの少し体を揺らした。木霊と思しきそれはそれでもなお暫く戸口の辺りをうろうろと落ち着きなく動き回っていたが、やがて意を決したように大きく息をして、怪物の目の前まで、手探りで這ってきた。
怪物の近目にもようやく明らかとなったそれは、やはり木霊の類のようであった。子供のような姿をしているがその頭は花を散らしたように白く、その身から立ち上る神気もかぐわしい。しかし厭な気配だ。怪物は木霊から目を逸らす。この身を縛り地脈に流れる霊気と同じ、陽に類するその神気は邪神の陰の気とは反りが悪い。その匂いには何処かで覚えがあったような気もしたが、靄がかかった頭では思い出すことが出来なかった。
「こ、此度は、おんみに御礼を、申し上げに参った」
怪物はひとつしかない目を眇め、訝しんだ。礼を言われるような事にはついぞ覚えがない。もしや、焼いた村に祀られでもしていた者が、これ幸いと仇討ちにやって来たか。しかし目の前の木霊には、あまりにも殺気というものがない。
「わちは、おんみに命を救うていただいたのじゃ」
ますます訳が分からない。己は命を奪いこそすれ、救うようなことがあろう筈がない。なにかの間違いではないかと思いながら、怪物はそれでも訥々と語る木霊の話をじっと聞いていた。
「礼を申し上げねばと思うたが、こわいやつが来たので、隠れておった。居なくなったと思うたら、小屋はふさがれてしまっているし、なんぞこわい音もする。どうにも、出るに出られず」
木霊はすっかりしょげかえった様子で俯いた。こわいやつ、とはあの軍司であろうか。確かにこわいやつではあろうが、太陽の子たる帝に仕える者が山の木霊に害なす筈もなく。それにしても、この木霊が言うことはどうにも要領を得ない。元より木霊というものは長く生きてもなお人の子供のように幼稚なものではあるのだが。怪物が頭の中だけで首を捻ったその時、木霊が膝で立ち、怪物にもう一歩近づいた。
「いまわかった。夜毎のあのこわい音。おんみが、魘されておられたのじゃな」
怪物は流れ来る陽の気から逃げるようにもがいた、つもりになったが、霊気に縛られた身体はやはり僅かに揺れるのみであった。木霊が怪物の目のすぐ側に手を伸ばす。その神気に喉元を掴まれたような気がして、怪物はひとつ目をぎゅうと閉じた。一瞬の後、思いの外小さな手が怪物の頰にぺたりと触れた。花の匂いが立ち込める。そこで、気がついた。
——あの時のやまたづか。
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