1/1
9人が本棚に入れています
本棚に追加
/17ページ

 私は会社のビルのエントランスから外を眺めていた。きょうは社内で雨音を聞きながら一日を過ごしたのだった。帰る頃には雨はやんでいるはずだった。だが、表を行き交う人びとは傘をさしている。天気予報は夕方にはやむと告げていたが、大はずれで、今もなお降りつづいていた。  私は傘立てから自分の傘を取った。私が学生のころから愛用して使っているおふくろに買ってもらった傘だ。 私はエントランスを出て、傘を開こうとしたが、傘は開かなかった。すぼんだままだった。再び、下ハジキを押さえ、下ロクロを押す。だが、傘は開かない。 私は肩が雨に濡れていくのを感じて、エントランスのなかにもどった。 「おつかれさん」  同僚が傘立てから傘を取り、私の横を通り過ぎて表に出ると、傘をぱっと開いて掲げた。 「おつかれさん」と、私は同僚にうなずき、傘の内側に手首をつっこみ親指に力をこめた。 「痛っ!?」  私は針に刺されたような痛みを感じて手をひっこめた。親指のさきから血が出ていた。指の腹が縦に裂けて血が(あふ)れだし、手首につたい、ぼとぼとと床に垂れだした。私は人差し指と中指で親指を(はさ)みこみ、止血をこころみた。血はなかなかとまらず、傷口がずきずきと痛みだしてきた。  ふと、私はすぼんだ露先のすきまから傘の内側に目がいった。なにか鋭利な刃物のようなものがあるように思ったからだ。私はこのとき唖然とした。傘の小間のふちがサメの口のようだった。尖った三角の歯がふちにそって生えて、そのさきに血が滴っていた。 「お、お化けっ!?」  私は傘をほうり投げた。 「――課長。どうかなさいましたか?」  よく知った女の声が聞こえた。私のデスクの斜め向かいにいる高橋由香子だった。彼女は清楚な美人だ。  彼女は目尻を下げ、優しい顔で私に近寄ってきた。私は人差し指に力をこめたまま、彼女のほうを向いた。 「あら! たいへん! 血が出ていますわ――」と、彼女は私に手を差しのべようとしたが、途端にひっこめた。 「なに!? その指のかたちはっ! いやらしい!」  私は痛む右手の親指を見て驚愕(きょうがく)した。 「こ、これは誤解だ」と由香子に言ったが、ときすでに遅し。彼女は傘立てから荒々しく格子柄の傘をひき抜くと、伏し目がちにエントランスから出て傘を開いて駆けていった。今後私と彼女は気まずい関係に変わってしまうのだろうか。
/17ページ

最初のコメントを投稿しよう!