A Winter's Tale

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 冷え切った街の、白く染まった空からそれは静かに降り始めた。頬に残る冷たい感触に、入り口の札をひっくり返していた手を止める。濃い色の上着に小さな花の粒を見つけ、思わず声を上げた。声音に嬉しさが滲んだ気がしてすこし恥ずかしくなり、誰に聞かせるわけでもないが、言い訳がましく思ってしまう。――この季節を、待っていたというわけではないけれど。  誤魔化すように両腕を擦りながらぼんやりと空を見上れば、舞い降りる雪のひとひらは次々と仲間を連れてきた。街路灯や木の枝に、うっすらと化粧を施していく様はゆっくりとしたもので、道行く人々も慌てて傘を差す気配はない。冷たい空気に溶けていく息が殊更白かった。 その日も、ひどく寒かったのを覚えている。 (1)    橙色の照明がぼんやりと照らす店内は、静かな朝を迎えていた。早い時間から営業しているこの店には、普段であればちらほらと入店があるはずの時間だが、今日は未だ、扉が開かれる気配はない。  一軒家を改装しているため、入り口は自動ドアやガラス張りではなく、中の様子が窺えない外開きのドアである。営業中、のプレートこそ表に出してあるものの、なかなかに立派で重厚な造りの扉は、常連でなければ開けるのを躊躇ってしまうだろう。周辺の景色や陽当たりがよいこともあり、暖かな季節であれば、扉は開けたままにしておくのが常であるが、冬の、まだ陽も昇りきらないうちはそれもかなわない。店先のブラックボードに「お気軽にどうぞ」の文字を、やや不格好な珈琲のイラストと一緒に書いておくなどの工夫が精一杯だ。もともと道楽半分で始めたらしい小さな喫茶店だが、ただでさえ人が出不精になるこの時季、とても流行っているとは言えない状況だった。――殊更、今日は。  きっと、いつにも増して空気が冷え込んでいるせいだろう。  店の従業員である五十嵐冬花は、暖房が利いてもまだ冷たい両手を擦り合わせながら窓の外へと目を向ける。明け方、この町でも初雪が観測されたのだと今朝のニュースで知ったのだ。それほど積もらないうちに止んだようで、今は遠く澄んだ冬晴れの空が広がっているが、地面にはその白さをうっすらと残している。ここへ来る途中も、吐き出す息は白かった。  ここで働き始めて長いというわけではないが、スローテンポな曲が流れる店内の、ゆったりとした雰囲気を冬花は昔から気に入っていた。それだけに、この時間から開いている店が近隣にないおかげで毎年なんとかこの時季を乗り切っている具合だと聞いて悩んでしまう。店のすぐ脇に立つ樹は春になると白や薄紅に染まる花水木だが、今はすっかりその葉を落とし切って寒々しい印象だ。立地もよいとは言えないから、何か対策を練った方がいいかもしれない。新しいメニュー、それこそ季節限定なんて素敵な響きだ。以前遊び半分で作った蜂蜜入りのラテは身内に評判がよかったのを思い出す。身体が温まるように、生姜を足してみるのはどうだろうか。  セットメニューに使うケーキの在庫を確認しながら思い巡らせていると、カラン、と控えめだがよく響く音が鳴り、冬花の意識はドアに向く。入店を告げるベルだ。ショーケースを閉めいそいそと出ていくと、入り口のところに背の高い男が立っている。見かけない顔だった。いらっしゃいませ、とお決まりの挨拶を口にしながら近づくと、彷徨っていた視線が顔ごとこちらを向いたことで、男が一見して美しい容貌をしているのだと分かる。白い肌に、色素の薄い髪の毛がよく映えていた。照明に透けて見える毛先までまったく痛んだ様子のないそれは、きっと生まれ持った色なのだろう。  窓際の席に腰を下ろした男のもとへお冷と手拭きを持っていく。店の雰囲気に合わないことと安っぽさを気にして、本来であれば布製のものを使いたいところだが、コストと衛星の面から手拭きは紙製を使い捨てだ。しかし、寒い季節であっても温めるなどの工夫を施せないこと、サイズが小さく拭きにくいことから、従業員にも客にも不評である。その手拭きを男の前に差し出し、口を開こうとして思わずその出立ちを見つめてしまう。買ったその場で着てきたような、真新しさ。丁寧に畳まれソファに置かれた寒色のコートには皺が見られない。窓から差し込む陽光に照らされたハイネックの白さは、故郷では馴染みの、降りたての雪を連想させた。驚いて足元へ視線を滑らせる直前、まじまじと見過ぎただろうか、持ち上げられた瞼に慌てて注文を聞く。不躾な視線に対して男は何も言わず、少し掠れた声でメニューを告げた。 「アイスココアを一つ」 「ホットもございますが」  メニューを手で示しながら尋ねるが、男は小さく首を振る。その拍子に髪の毛が揺れ、光に透けた。 「いえ、あの」  アイスで、お願いします。  静かに呟くような声は、他に誰もいない店内に響いて聞こえた。無機質で淡々とした印象の、それでいて不快な感じはしない不思議な声。耳に馴染むようで、心地がいい。おのずと笑顔が浮かんだ。 「かしこまりました。今、お作りしますね」  アイスココア、と手持ちのメモ用紙に書きこみ奥へと引っ込む。すぐさま小鍋にココアパウダーと砂糖を入れて軽く混ぜ、そこに水をほんの少し加えて練り合わせる。ほんのりと匂いが立ち粘度が出てきたら、牛乳を入れて弱火にかけ、ヘラで手早く溶かすのだ。材料は時間をとって、きっちりと量る。ココア・砂糖・牛乳の比率には店長のこだわりがあって、4・10・100をうちでは黄金比としている。忙しい時でも必ず計量することが、数少ない店の決まりごとだ。  アイスドリンク用のグラスを取り出し、ひんやりと程よく冷えたその中に氷を滑らせる。鍋を火から下ろしてココアを注ぎ、マドラーで軽く混ぜれば大きめに砕いた氷がグラスの中でぶつかり合い、涼やかで心地よい音が鳴る。出来上がったものをトレイに乗せ客席へ出ると、男は何をするでもなく窓の外を眺めていた。  ――雰囲気のある、とはこういう人をさすのだろうか。  チェーン店にはない、こぢんまりとした店の静けさを求めてやってくる人は多いが、いまは他に誰もいないこの場所に、男は不自然なほど似合っているように思えた。そこに座っているだけで絵になる、と。  仲良くなって、もしモデルか何かをお願いできたら、店のいい宣伝になるかもしれない――一瞬、頭を過った邪な考えを振り払うように冬花は首を小さく振った。 「お待たせいたしました、アイスココアです」  男の前にコースターを差し出し、その上にそっとグラスを置く。ごゆっくりどうぞ、と声をかければ、ありがとう、と小さな会釈が返ってきた。常連であれば気安くいつも返してくれるけれど、新規であれば飲み物に一瞥もくれず作業に没頭していることが多い。干渉を嫌う人が多いのだと、店長を務める彼女は気にしたふうもないが。微笑みをもらったわけでもない、ただ愛想はないが乱暴なわけでもないその一言は冬花を舞い上がらせるのに十分だった。  邪魔にならないようカウンターへと移動する。再び入口の扉が開く気配はなく、通りを行き交う人の姿もまばらだ。店内を見るともなしに眺めるも手持無沙汰で、自分用に珈琲でも淹れようかな、とケトルを引き寄せたところでふと目に飛び込んだのだ。――その時、何故そうしたのかは自分でもよくわからない。ただ、そうしなければならない、と。  ……遠慮をする人はいないのだし、これがもし見当違いで、寒いとなったら声をかけてくれるはずだ。  迷ってから、ヒーターの電源を切った。  ゆっくりと、しかし氷が溶けきる前にアイスココアを飲み干した男は、その後長居することなく会計を済ませた。扉の外へ消えていく背中を見送ると、間もなくベルが鳴り響いた。 「今年も降ったかぁ。今朝はすぐに止んだからいいけどね」 「おはよう。店番、ご苦労様」  入れ替わるようにしてやってきたのは、店長である幸恵と常連客の高瀬だった。靴裏に付いた雪を落とすようにつま先で地面を叩き、寒い寒いと、抱いた肩を震わせながらそそくさと中へ入っていくのを見て、慌ててヒーターをつける。幸恵はそのまま従業員の控室を兼ねている奥の部屋へ引っ込み、高瀬はカウンター席に座った。高瀬に手拭きを渡し、壁際の古時計に目をやればいつの間にか退勤時刻が迫っていた。午後に大学の授業が入っている冬花が任されているのは基本的に朝の時間と休日の午後である。昼にさしかかる頃にはこうして幸恵と代わるのだ。 「高瀬さん、今日はもういらっしゃらないかと思いました」  注文を受け、湯を沸かしながら話しかける。たいていは店を開けて一時間と経たないうちに顔を見せ、まずは冬花の淹れた珈琲を、昼過ぎになると幸恵の淹れた珈琲を一杯ずつ飲んで過ごす人だ。病院の警備に就いていて夕方から翌朝にかけて働いており、その足で直接ここに通っているというが、いったいいつ眠っているのだろう。時々は陽当たりのよい窓際のソファ席でまどろむこともあるものの、普段はカウンター席で冬花や幸恵、他の常連客との会話を楽しんで帰ることが多い。さすがに仮眠休憩はあるよ、と快活な笑顔を見せる高瀬は、とてもそうは見えないがもうすぐ還暦を迎えるそうだ。 「研修終えて昨晩から一緒の若いのがいてね、帰りはそいつを車で送ったものだから」 「そっかぁ……続けてくれると、いいですね」 「まぁきつい仕事ではあるし、最初が肝心。なんでわざわざ選んじまったんだろうなぁとも思うが。でも懐っこくて忍耐もありそうだから、仲良くやっていきたいよ」  すべて高瀬から聞いた話ではあるが、楽そうだから、と碌に調べもせず応募しては辞めていく人が多いという。そのたびに曖昧な笑顔を浮かべて仕方ないけどね、と話す高瀬を見るのはなんだか忍びなく、冬花としてもその新人には続けてほしいと思うほかない。長く続けてきて、「わざわざ選ぶような仕事ではない」と言う高瀬がその仕事を選んだ理由を聞いていいのかどうか、冬花には未だ判断がつかない。 「はい、お待たせしました。どうぞ」  黒々とした液体で満たされたカップを高瀬の前に差し出す。日本では最も馴染のあるとされるペーパードリップは抽出方法が簡単で、熟練していない冬花が最も美味しく淹れることのできる方法だ。抽出時間が短く後片付けも容易で、気軽に一杯飲みたい時や忙しい朝には重宝する。簡易とはいえ、好みの味に淹れるまでにはある程度慣れる必要があるが、そのための道具は様々に用意されている。特に今回使ったコーノ式と呼ばれる円錐形のドリッパーは、雑味が出ないうちに抽出を終えるため、雑味がなくすっきりとした甘みのある珈琲が味わえる代物だ。――高瀬が冬花に頼むのはいつも決まってこれだ。豆は浅煎りのブルーマウンテン。華やかながらもバランスのとれた品種だ。  ありがとう、とカップを持ち上げた高瀬の表情がふっと柔らかいものになるのを見届けて、冬花も顔をほころばせる。まだ働き始めたばかりで味のぶれる冬花の珈琲を飲み続けた高瀬から「美味しい」の一言を引き出せるようになったのは、比較的最近のことだった。 「トーカちゃん、お待たせ。代わりましょうか」  高瀬との他愛ない話を続けていると、身支度を終えた幸恵に声をかけられる。こげ茶色のエプロンを外し、勧められるままカウンター席に腰を下ろすと幸恵が珈琲を淹れてくれる。ネルドリップで淹れた一杯は味がしっかりとしていて、苦味と酸味のバランスがよく飲みやすい。そっと口をつけて、温かい息を吐く。 「それにしても、珍しいお客様が来ていたみたい」  のんびりとした口調で幸恵が言う。先ほど店を出た男のことだとすぐに分かった。今は閉まっている重々しい扉へ目を向けると、つられてそちらを見た高瀬もあぁ、とひとつ頷いた。 「ちょうど、出てくるところが見えたのね。見かけない顔だったから覚えておこうと思って、すれ違いざまにこっそり窺っていたの。……男の人に言うのもどうかしら、でもすごく綺麗な人だった」 「幸恵ちゃんは、ああいうのが好み?」  常連客に「ちゃん付け」で呼ばれる幸恵は、どこか少女めいた雰囲気がある。振る舞いが幼いというわけではない。寧ろ幸恵の性格と言動は穏やかで落ち着きがあり、聞き上手であるという彼女の評判に大いに貢献しているはずだ。ただ、なんというのか、人の言葉を借りるのならば「すれたところがない」のである。物事にひたむきな性格で、よく笑う。学生時代から変わらない気質らしい。笑った顔は幾つになってもあどけなく、緩く波打つ長い髪の毛も幸恵の纏うあたたかな空気に似合っている。季節で言えば「春の人」であるというのを聞いて、ぴったりな表現だと思ったのだ。  高瀬の冗談めかした声に、幸恵も楽しげに笑って答える。 「綺麗なものは誰が見たって綺麗だと思うわ。高瀬さんだって言っていたじゃない? えらく綺麗な顔しているね、って」 「そりゃ、なんてったって印象に残るからね」 「それに好みかって言ったら、トーカちゃんの方じゃないかなぁ」 「えっ?」  思わぬ流れ弾に頓狂な声を上げ、手で包むように持っていたカップをソーサーの上に戻した。途端ににやついた表情をする高瀬の視線から逃れるように幸恵を見ると、花がほころぶような柔和な笑みを返される。ね、トーカちゃん――と舌足らずな呼び方をする幸恵に、客の前では恥ずかしいからと何度か制止を試みたが、未だ聞き入れられた例がない。 「そんなんじゃないですよ」 「あら、少しも気にならなかったの? 見たら忘れないくらい綺麗なのに」  見たら忘れないくらい――初対面にもかかわらず、僅かに懐かしさを覚えたのは何故だろう。 「気になったのはそういうことじゃなくて。アイスココアを注文したんです、その人」  この店にはエアコンが備えられていない。暖房器具として設置されているのは遠赤外線ヒーターが二台だけだ。人物や壁など赤外線が当たった対象はすぐに暖まるため、局所的な寒さを緩和したい場合には向いているが、その輻射熱で部屋全体が暖まるまでにはかなりの時間がかかる。大勢の客で賑わうということが滅多にないので、二台あるヒーターのうち一台はほとんど高瀬専用である。もう一台は入口付近に置くか、窓際のソファ席に人がいればそこへ、誰もいなければ冬花や幸恵が使わせてもらうことになっている。転倒や消し忘れがないよう細心の注意は払っているが、火事でも起きたらと毎年密かに気が気でない。たとえ安全面を考慮せずとも、今時エアコンのひとつもないなんて、と店が流行らない理由のひとつにもなっているだろうに、それでもエアコンを設置しないのは幸恵が乗り気でないからだ。幸恵はこの店の二代目の店主である。できる限り先代から受け継いだままの店にしておきたいのだといつぞや言っていたのを覚えているので、冬花もしつこく食い下がることはしない。 つまるところ、室内とはいえこの時季はひどく寒いのだ。 「冬に食べるアイスと同じじゃないかなぁ」 「あれはあったかい部屋で食べるからいいんですよ」 「うちにやってくる人の中では、ココアというのがそもそも珍しい注文ね。高瀬さんも綾子も、みんな珈琲を頼むから」  みっちゃんくらいじゃないかしら、と思い当たる客の名前を挙げて、幸恵は件の男が座ってそのままになっていた客席の片付けに手をつけた。テーブルの上を手際よく片付けて、微笑みながら冬花を振り返る。 「また来てくれるといいね、ココアの彼」  「ココアの彼」が再びやってきたのは、それから二週間ほど経ってからのことだった。あと一時間で閉店といった時間にやってきて、やはりアイスココアを注文したらしい。その時冬花は店にいなかったので、後で幸恵から聞いた話だ。そしてその日を境に、幸恵が勝手につけていた渾名も早々にお役御免となる。本人のまったく知らぬところで馴染み始めていた「ココアの彼」には、当然ながらきちんとした名前があった。  ――スズキさん。字面は一般的な「鈴木」だろうか。  男の佇まいを思い出してつい口を滑らせた。意外と普通だね、という冬花の感想に幸恵は小さく首を傾げてみせた。よくある響きだけれど、そうかしら。 「私はぴったりな名前だと思うわ」  唇の端を引いてそう口にしている間も、幸恵の視線は自らの手元に集中している。レモンタルトの載ったプレートにホイップクリームを見栄えよく搾り終えると、その隣に小さくアイスクリームを盛る。最後にセルフィーユの葉を手で千切って添え、カウンター席に座る客へとプレートを差し出した。脇に置かれたカップの中身は、ほとんど口をつけられないまま冷めてしまっている。 「みっちゃんが聞いてくれたのよねー」 「ねー」  幸恵と顔を見合わせてくすくすと笑う小さなお客様――みっちゃんは、レモンタルトに目を輝かせて「いただきます!」と元気よく手を合わせた。「みっちゃん」は名前の頭をとった呼び名だ。本人が自分を指してそう呼ぶので、店の者や常連客は皆同じように呼ぶ。このあたりに長く住んでいる人間は多く、そうした人たちは互いに顔見知りであるので、子供を見てどこの家の子であるかもきちんと分かっている。まだ小学生であるみっちゃんが一人で店に遊びに来ても、暗くなる前に帰るよう声をかけこそすれ、無理に帰そうとしたり叱ったりはしない。少しませたところがあって、喫茶店という小さな子供にはあまり馴染みのない場所の空気が気に入ったらしい。カウンター席に行儀よく座り、つんと澄ました表情を作って「ココアを」と注文を告げるのはいつものことだ。月に一度か二度の頻度で来店するみっちゃんは、お小遣いの大半をこの店に使う。 「お菓子もかわいいシールもほしいけど、他の子もみんな持ってるからいいの」  みんなとおんなじじゃつまんない、と足を揺らすみっちゃんは常連客の間ではすっかりアイドル的存在になっていて、時折デザートをつけてもらっている。現在彼女の隣に座っている佐野綾子は、みっちゃんの「ファン」であり、幸恵の高校時代の同級生でもあるという。ブラックコーヒーを口にしながら、口の周りにクリームがつくたびに手で拭う様子を柔らかい表情で眺めている。背が高くすらりとしていて、その言動からも快活そうな印象を受ける綾子は幸恵とは真逆のタイプに思えるが、この二人はとても仲がよい。この近くに住んでおり、店ができた当初から通っているというから常連客の中でも古株だ。 「みっちゃん、美味しい?」 「うん! あやこちゃん、ありがとー」 「どういたしまして。……みっちゃんみたいな、可愛い女の子が欲しかったわ」  うちの、生意気でしょう? と冗談めかして笑う綾子に冬花は曖昧に笑って見せる。綾子には一人息子がいて、あまり愛想がいいとは言えないが時々店を手伝ってくれている。冬花の大学の後輩でもあり、年は二つ下だ。最近は顔を見ていないが、試験期間に冬花が切羽詰まったりすると勤務を代わってくれるので助かっている。勿論正式な従業員ではあるが、ほとんど本人の意思を無視して話が進んだため、彼がここで働いてくれることになったのはほとんど綾子の好意によるものだ。マイペースな性格に振り回されるのは、冬花もしょっちゅう経験している。距離はそれほど近くないが、お互い妙な親近感を感じている。 「夕方とか、あと夏に店のレイアウトを替えた時にも手伝ってもらったから……すごく、助かりました」 「そう? ならよかった。どうせ暇だろうし、これからもどんどん使ってやって。それよりも――そのスズキさんってどんな人なの?」  綾子の目元が綺麗な弧を描いた。穏やかな街にはこれと言って湧き立つような出来事が何もない。だから周囲で色恋沙汰やその気配があれば、皆話に食いつくのだが、綾子も例外ではないらしい。寧ろ、彼女の一人息子からはそういった話をまったく聞かないので、その手の話題に飢えているというのだ。 「どんなって言っても、私もまだ一度しか」 「王子様みたいだった!」 「それから、ハルヒコさんに似ていたのよ」  この手の話題に辟易とする冬花を、みっちゃんと幸恵のはしゃいだ声が遮った。 「……王子様とハルヒコくんは、結構違うんじゃない?」  少し気取ったところはあったけどね、と両者の共通点を探そうとして綾子は眉根を寄せていた。  「ハルヒコさん」というのはこの店の先代店主で、もう随分前に亡くなってしまった幸恵の夫にあたる人だ。幸恵とは高校時代に同じ天文部であったことから知り合い仲良くなったということだから、綾子を含めて三人は同じ高校の同級生ということになる。晴彦、と書くその人に冬花も会ったことがあるが、まだ幼い頃だったので、彼について知っていることのほとんどは後になって幸恵や綾子から聞いたものだ。名前のとおりに明るい人だったこと、星に詳しかったこと、いつも珈琲のにおいが染みついたエプロンをしていたこと、料理がとても上手だったことは、おぼろげだが覚えている。――幸恵がこの店を改装したがらないのは、晴彦との想い出が詰まっているからだ。喫茶店を開いてまもなく幸恵と結婚した彼は、その数年後に病気で亡くなった。時折、こうして「ハルヒコさん」と口にする幸恵の様子に暗いところはないが、冬花はかえってどうしていいのか分からず、ただ幸恵が話しているのを横で聞いているしかなかった。 「トーカちゃん、みっちゃん、ココアおかわりしたい」  タイミングよくみっちゃんがカップを差し出してきたので、カウンター席から小さな身体が乗り出す前にそれを受け取る。二人に気を遣ったのか内緒話をするように声を潜めたみっちゃんに、同じように小声で返してココアを準備する。この店で出しているココアは比較的甘さが控えめだ。みっちゃんや小さな子供には、蜂蜜やミルクを加えることで甘さを足して出すことにしている。少し冷ましてからカップを渡してやると、みっちゃんは「ありがとー」と受け取ってすぐに口をつけた。――幸恵にも、淹れ直してあげた方がいいだろうか。 「すごく綺麗な人だったのよ。綾子も一目惚れしちゃうんじゃないかしら」 「ふぅん、そんなにいい男なら見てみたいわね。でもハルヒコくんはそんなに美丈夫だったっけ?」 「似ているのは顔じゃなくてね、雰囲気かな。彼の周りだけ、時間の流れがゆっくりというか、なんだか空気が違うの」  二人の話を聞きながら、冬花は一度会ったきりのスズキさんと、記憶の中の晴彦の顔を見比べてみようと思い浮かべたが、どうにもうまくいかない。初対面にもかかわらず懐かしいと感じたのは、幸恵の言うように、知った人に似ていたからなのだろうか。  もし、そうだったとして。  そうそう、と嬉しそうに弾んだ声で幸恵が言う。みっちゃんとのやりとりを見て思い出したらしい。 「ハルヒコさんもね、自分ではココアばっかり飲んでいたのよ。冬花ちゃんは、小さかったし流石に覚えていないかなぁ」  幸恵は懐かしむように微笑みながら、冬花が入れ替えたカップをそっと引き寄せた。みっちゃんのものとは違い、蜂蜜もミルクも入っていない甘さ控えめのココアは、湯気を立てほのかに苦い豆の匂いを残している。
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