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兄貴
あたしの家は、両親とも仕事をしていて家のテーブルの上には冷めた夕食の用意がしてある。
ずっとこんな生活だから、さして寂しいとも思わなくなっている。
まあ、一人ぼっちというわけではないからね。
兄貴がいるし、近くにばあちゃんも住んでいる。ちょこちょこ来てはあたしをしかって帰っていく。
お隣さんは小さい頃からかわいがってもらってる水嶋家のパパとママがいる。
そう、水嶋保の家だ。たもっちゃんは、一人っ子なもんで水嶋パパも水嶋ママもわが子のようにあたしをかわいがって、ちょっと、いや、めちゃめちゃ居心地の良いおうちだ。
冷めたビーフシチューの鍋を火にかけながら、今日はなんだか鼻歌がでちゃう。
とろとろのお肉はすごくおいしく満足な夕食で、ごちそうさまをしてお風呂に飛び込んだ。
バスタブに入浴剤を入れる。
足から下の水の色が緑色に変わっていく。同時にぷぅ~んと柑橘系の匂いがした。
「あ、これ」
入浴剤の袋にはぼこぼこの柚の写真がプリントされていて、あたしは思わず笑ってしまった。
本当に柚ってレモンとかオレンジとかに比べると、表面がぼこぼことしてて可愛いって感じじゃないね。笑いながらあたしはその写真にささやいた。
「でもね。とってもかわいいよ」
なんでだろう、今まであったことのない様な出会いだったな。すっぱかったり甘かったりたくさんの味をもってる、まだ実をつけたばかりの柚のような女の子だったな。
柑橘の甘酸っぱい匂いにつかって目を閉じていると、トントンと音がして急にバンっとお風呂の扉が開いた。
「おまえさぁ~、麦茶薄いよ!」
真っ黒な日焼けした顔。
「持っていってやったのに、文句いうな!」
あたしは、兄貴にどなってやった。
「女の子の風呂のドア開けるときは、声かけてよ!」
「あ、わりぃ。でもノックはしたぞ」
くそ!なんで、あんなのが良いんだろうね。
めちゃくちゃ外面がいいやつなんだ、兄貴って。
そう、柚花のあこがれの君は、あたしの兄貴。野球部のキャプテン。三年生でたもっちゃんの幼なじみでもある。
小さな頃からあたし達三人は、いつも一緒に遊んでいた。大人に対してはしっかり者を演じている兄貴と、少々幼いたもっちゃんと一つ年下のあたし。三人そろってちょうど同等の遊び相手だった。
その頃はたもっちゃんとキャッチボールして遊んでたけど、小学生になって兄貴が野球クラブにはいると二人して後を追って野球クラブの一員になった。
レギュラーの座も懸命になって狙っていたから、女だてらによくやってたなと思うね。
でも、二人が中学生になって野球部に入ると、あたしの野球熱はすっかり冷めちゃってボールを握ることもなくなっちゃったのよね。
中学生の二人を横目で見ながら、あたしはどうして女の子に生まれてきちゃったのかな、なんて思ったっけ。
今思うと笑っちゃうよね。中学行ったら野球部に入ろうか、なんて真剣に思ってたんだからさ。
そう、あたしは野球が好きだったんじゃないの。兄貴とたもっちゃんと一緒の事がやりたかったんだよね。小さい頃はずっと同じように生きていけると信じていたから。
あんまり深く考えた事なかったけど、今日は柚花の影響かな。いろんなことが頭の中をめぐる。
湯あたりしそうだったので、風呂から出た。
兄貴は、ビーフシチューを美味そうに食べていた。暑いからか、パンツいっちょうで食べてる姿は絶対に柚花には、見せられないなと思った。
「今日連れてた子、友だち?」
ビーフシチューのお肉を頬張りながら、兄貴はテレビのスイッチを入れた。
「うん、まあ。うちの部の入部希望者。同じクラスで転校生」
面倒臭いのでかいつまんで説明する。
兄貴はテレビを見て笑いながら
「良かったじゃん」
とだけ言ってテレビの中のくだらないお笑いにケケケケと下品に声をあげた。
やっぱり、こいつは外ではまったくの『ええかっこしい』だよね。
こんなパンツ一枚で下品に笑ってるくせに、生徒会の集まりなんかでりりしい顔して代表意見なんか述べちゃうんだからさ。
そう、学校では品行方正、生徒会の会長だもの。で、野球部のキャプテンってどんだけ?って感じ。
かっこいい、ってみんな言うけど毎日こんな姿みてるからあたしのハンサム度数は一般の人とはきっとどこか違ってきちゃってると思うな。
最近特に距離感が広がっちゃって、話合わないし。
あたしは、縛られるのが大嫌いだったんだよね。
だから、どっちかって言うとお隣のたもっちゃんが兄妹みたいな感じで、たもっちゃん介して接してるような関係かな?
でもなぁ、柚花が兄貴のこと本当に好きだったら、どうしたもんだろう?友だちとしては応援すべきなのかなぁ。
だけど兄貴には柚花のいいところは理解できないかもしれないから、まあ成り行きにまかせることにしようっと。
次の日の朝、登校途中の眠くてふらふらのあたしを呼ぶ声がした。
裏門からのそのそ歩いていたあたしの頭の上から降ってきたその声は、ひばりのさえずりみたいにあたしの頭を貫通した。
「みわ~~、おそいよ。朝は早く起きなきゃもったいないよ~~」
中庭から二階校舎の渡り廊下を見上げると、真っ黒い瞳と目があった。柚花がいた。
もったいないって?何がもったいないのかな?
ぼっとするあたしの目の前に、階段を駆け下りてきた柚花の息を切らせた明るい顔が現れた。
「もったいないの?」
ぼそぼそとあたしは首をかしげる。
「そう、もったいないよ。一日はもう始まっちゃってこんなに時間が過ぎちゃったもの!」
下駄箱にいっしょに歩きながら、柚花は言った。
「答え、でたよ」
答えって、ええと。眠っている脳をたたき起こしながらあたしは首を振った。
「ええと、それって昨日の考えてみるって言ってた答えってこと?」
あたしをまっすぐに見据えながら、大きな黒い瞳がきらりと光った気がした。
「うん、美羽の言ってたとおり。恋、だね」
柚花は人事みたいに、きっぱり言い切った。
一晩かかって考えた結果なのかな。このこは、物事にまっすぐに向き合ってキチンと捕らえようとするんだ。
まっすぐ、直球を投げてくる。相手をまっすぐに見つめて、決して逃げないで。
ようやく目がさめたみたいで、あたしはどんな風に考えたのかとか、どんな気持ちを持ってしてそう考えたのかとか、聞いてみた。
柚花は、今日朝早くから学校に来てみたそうだ。野球部の朝練を見るために。
やっぱり、昨日とおんなじ様に目が自然と彼をさがしていたって。で、他の誰よりも輝いて見えちゃうんだとかなんだとか。こんな風に胸のどこかが高鳴ったりぎゅっと締め付けられる事は、初めてだって。
昨日のあんたを見たら誰だって気がつくよ、まったく。それを「答えを出すから待ってて」なんて本当におもしろいね。なんて、楽しいんだろう?
あたしは、おかしくっておかしくって笑いが止まらなくなっちゃって、柚花にしかられた。
「おかしくないよ!」
そうやって、真剣に怒るところがまたおかしくって、あたしは久しぶりに朝から腹をかかえて涙を流して笑っちゃったよ。
はじめは、ふくれっつらをしていた柚花もあたしにつられて笑い出したの。
もう、二人でなんで笑ってるのわからなくなっちゃっても笑いは消えてくれなくって、もう死にそうだった。二人とも笑い疲れて、その日の授業は居眠りしちゃったんだ。柚花は三十分以上もはやく来てたから、たまにガクッと頭が大きく揺れた。
その日の放課後、本当は部活なかったんだけど「製作途中の物があるから」とか言ってあたし達は、芸術部顧問の野村に鍵をもらって美術室の使用許可を得た。
「暑いから、美術準備室で作業してもいいぞ」
なんて、気のきいた事を言うもんだからつい「いつも使わせてもらってます」なんて言いそうになって慌てちゃたけどね。
準備室は涼しくってこたえられないね。校庭のがんがん照り返しの中で部活をしている兄貴やたもっちゃん野球部員たちが、可哀そうにすら思えちゃう。
でも、好きでやってるんだからいらぬお世話だよね。
ふと、気になって柚花に聞いてみた。
「ところで、憧れのきみの名前知ってる?」
あたしの目をまっすぐに見て
「うん、朝練の時わかったよ。沢岡翔(さわおかしょう)って言うみたいだけど」
もう隠しても仕方ないので潔くびっくりする柚花の顔を期待しながら
「そうそう、あれ、あたしの兄貴なの。もちろん、一緒に住んでる」
柚花は、笑い出した。
「はははは、兄妹なんだから、一緒に住んでるに決まってる!」
そうくるとは思わなかったので、あたしは頭をかいた。
「やっぱり?」
「美羽っておもしろい!なんで隠してたの?名前同じなんだからすぐばれちゃうのに」
そうか、柚花に面白いって言われちゃったら正直に言おう。
「だってさ兄貴ってさ、学校では品行方正な優等生かもしれないけどさ、家の中じゃそりゃひどいもんよ!」
あたしは、大袈裟に両手を広げて見せた。
「いいんだよ。そんなとこがあったほうが、よけい魅力的だよ。ああ、完璧じゃないんだなって、近い存在なんだなって」
柚花は再びとろんとした目を校庭に向けた。
そうか、そうだったのか。だめなとこがあったほうがいいんだ。その方が魅力的?へぇ~
柚花のまっすぐなところに、感動さえおぼえるあたしだった。
直球だね。直球ガールだね。素直なきみに乾杯!
それからあたし達は、そんな楽しい放課後を何度も過ごした。
柚花は、誰とでも問題なく友だちになれるようでクラスメートからも好かれていた。あたしは、一匹狼的な感じだったのが、柚花を介していろんなタイプの子とも話すようになった。
でも、やっぱり柚花が一番で、一緒にいて楽しかった。
柚花も、なぜだかあたしが一番気が合うって言ってくれてたから、親友とかってこんな感じなのかなって思ったりしたんだ。
ずっと、こんなに楽しい中学生活が続くと思っていた。その時は。
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