傘の思い出

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 六月のこの時期は、来る日も来る日も雨。窓の外の風景は、どこまで行っても傘、傘、傘。その下を行く人の姿は見えない。どんなにカラフルな傘に彩られていても、本当に大切なものは見えない。  そう、梅雨の時期は、いつだって傘のせいで大切なものが見えない。  あの時もそうだった。  僕たちの通っていた小学校は廃校寸前の小さな学校だった。過疎も災害も関係のない僕らの町がどうしてそんなことになったのかと言うと、二つ隣の町に新幹線がやってくることになったからだ。かっこいい横文字のショッピングモールの誘致にも成功した結果、僕らの町からもごっそり人が移動した。商店街に人生をくくり付けられている僕らの親は、対策会議と称して、昼間から酒浸りになっていた。  五年一組の十五人――ほとんど全員が商店街の店舗の子供だ。みんな仲が良くて、学校近くの公園で毎日毎日、バスがなくなるまで遊んでいた。親たちがそれに文句を言うはずなんてなかった。何せ、親は僕たちの帰りが遅ければ遅いほど、たくさんのお酒を飲むことができるのだ。  ある日、学級委員をしていた代田が、帰り際に行った。 「面白いものを手に入れたんだ。明日、内緒で持って行くから、七時半に学校な」  次の日、みんなは言われたとおりの時間に学校に行ったらしかった。でも、起き抜けに母親とひどいケンカをした僕は、朝食も食べずに学校まで全力ダッシュしたにもかかわらず、ようやく学校に着いたのは、いつも先生の来る時間の少し前だった。 「何、どうしたの」  息を切らしながら問いかける僕を見るみんなの目がいつもとは違っていることに、すぐ気がついた。十三人のクラスメイトの向こうで、代田が足と腕を組んで座っている。代田の目の前の机の上には、写真のようなものが見えたが、代田は僕の目がその上に止まるのを見ると、素早く手を伸ばして裏返した。  嫌な予感がしたので、まっすぐに代田のところに行こうとしたが、十三人のクラスメイトが壁になって、まっすぐ進むことができない。すると、先生が教室に入ってきて、早く席につけと言った。  僕の席は、先生の目の前だ。僕の列の一番後ろに代田は座っている。僕は、首の後ろにヒリヒリとした視線を感じながら、おはようございますを言った。 「先生」  朝の会が終わると、代田の声が教室中に響き渡った。十三人の間にも緊張が走るのが感じられた。ただ僕だけが取り残されていた。取り残されることが約束されていたような見事さだった。 「先生」 「どうした」 「この写真を見てください」  代田は立ち上がって、僕の右をすり抜けて、先生の席まで行った。両手を胸に当て、その下には裏返しにした写真が見える。僕のすぐ目の前で、代田君はその写真を先生に渡した。一生懸命、体をひねって、写真を見ようとしてみたが、どうしても覗くことはできなかった。振り返ると、十三人が僕と先生と代田の三人をかわるがわる見比べていて、僕は誰とも目を合わせることができなかった。  その時、僕の目の前に傘が転がっていることに気がついた。僕の傘ではない。子供用の傘ではない。先端がプラスチックではないから。何の模様も飾りもない、半透明のビニール傘だ。先生の物だろうか。誰かの忘れ物だろうか。授業で使う予定があって持ってきたのだろうか。  何もわからない。  何もわからないからこそ、僕の手は、気がつけばその傘に向かって伸びていた。  写真にかかった血のせいで、結局、何が写っていたのかは分からなかった。  誰も教えてくれなかった。  代田と会うことも二度となかった。  その日以来、僕は毎日毎日、同じ景色を見続けている。六月のこの時期は、来る日も来る日も雨。でも、梅雨が明ければ、夏の日差しに焼かれるアスファルトを目にすることになる。この施設の前を足早に通り過ぎていく人々の黒々とした頭も、夏の日差しに焼かれる。  誰も、僕の方を見上げることはない。  誰も、僕と目を合わせることはなかった。
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