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おしゃべり傘のかさこさん
紫乃が大学の図書館を出ると、雨が降っていました。
土砂降りですが、傘を持っていません。携帯電話は持っていましたが、入学を機に一人暮らしを始めたばかりで、迎えを頼める人はいません。図書館に戻ったところで、傘に入れてくれるよう頼める友だちもいませんでした。
雨が止む一縷の望みに賭けて図書館の閉館時間まで粘ることも考えましたが、そろそろ購買部は閉店する時間です。諦めて、渡り廊下伝いに購買へ急ぎました。
お金が惜しいので、一番安いビニール傘を買いました。
一人暮らしを始めてから、お金には敏感です。特に今月は、入学早々祖父の葬儀で帰省したため、いざというときのために取っておいたお金がすっからかんになってしまったのです。
(ビニール傘とはいえ、長持ちさせないと)
そう思う一方で、そんなに長くは使えないだろうなとも思います。
安いビニール傘は短命です。しかも、購買で買ったものなんて、同じものを使っている人はたくさんいるでしょうから、間違えられたりして、あっという間になくしてしまいそうです。
(どうしようかなぁ)
だからといって、小学生みたいに自分の名前を書くわけにもいきません。
家について傘を畳もうとすると、値札がついたままでした。
小さな値札には「傘 コ-3」と書いてあります。品番でしょう。
「かさ、こ、さん、かぁ。かさこ、さん?」
名前みたいです。
「そうだ!」
紫乃は、マスキングテープで持ち手の部分に「かさこ」と書きました。
これなら自分の名前ではないので防犯上の問題はありませんし、恥ずかしさも少し減ります。紫乃はおかしくなって、歌うように言いました。
「かさこさん!」
「なあに?」
ギョッとしました。紫乃ではない別の女の柔らかな声が、こちらも歌うように答えたからです。
でも、一人暮らしの部屋に、紫乃以外の人間がいるはずもありません。
「わたしのお名前つけてくれたあなた、あなたはだあれ?」
声は、すぐ近くから聞こえてきます。
「わたしは、かさこ。あなた、だあれ?」
「……しゃべれるの?」
紫乃は恐る恐る手元の傘に尋ねました。「かさこ」と言ったからには、これしかありません。
「あなたが名前をくれたから」
かさこさんは、うれしそうに笑った……ように聞こえました。
それで紫乃も、つられて笑ってしまいました。
「傘のかさこさんかぁ。わたしは紫乃。わたし、誰かと喋ったの久しぶり。大学に入ってから、友だちできなくて……」
入学式を終えて何日もしないうちに、一週間も帰郷してしまったのが悪かったのでしょう。戻ってくるとみんな仲良しができていて、話しかけられる雰囲気ではありませんでした。
家に帰れば、初めての一人暮らしに慣れるだけで精一杯です。一人の夜は、亡くなった祖父のことばかり思い出してしまい、ますます悲しみが募りました。
夢を叶えるために入学したのに、もう大学に行きたくないと思ってしまうほど、紫乃は寂しさに追い詰められていました。
こみ上げる涙をぬぐっていた紫乃に、パッと明るい声がかかりました。
「あら、それならわたし、大学生のしのちゃんの初めてのお友だちなのね!」
「……そっか」
「仲良くしてね。わたし、お名前もらえてうれしいの。かわいく書いてくれて、うれしいの。しのちゃん、ありがとう」
「うん。もっとかわいくしてあげる」
「まあ、うれしい」
翌朝、雨は降り続いたままでした。かさこさんの出番です。
かさこさんには、あの後カッティングシートで紫乃が装飾したので、もはやただの透明なビニール傘ではありません。色とりどりに彩られた華やかなデザインの傘に変身していました。
それをかさこさんはとても喜んでくれて、昨夜は久しぶりに明るい気分で眠ったのでした。
大学の講義棟に着いたので、紫乃はかさこさんを畳みました。水滴を振り落として、バンドを掴みます。
(ギュッと巻いたら、痛いかな?)
かさこんさんに尋ねてみたいところですが、誰が聞いているか分からないここで話しかけるのはためらわれます。予め聞いておけば良かったと、紫乃は微笑みました。
「ねえ。その傘……」
「え?」
突然、近くにいた女の子に話しかけられて、紫乃は驚きました。
まさか、バレたのでしょうか。
(この傘がかさこさんだって? 傘にしゃべる変な子だって、わかっちゃった?)
「わたし、あなたの後ろを歩いていたんだけど、その傘かわいいね」
「ありがとう……あの」
「え?」
「もしかして、同じ学科かな。わたし、これから英語の授業なんだけど」
「わたしも」
紫乃は、初めて大学の生徒と長くおしゃべりすることができ、それをきっかけに友だちがたくさんできました。
「ありがとう、かさこさん。これもかさこさんのおかげ」
「紫乃ちゃんが、みんなとおしゃべりしたからよ」
「そのきっかけをくれたのは、かさこさんだよ。これからも、ずっと一緒にいてね」
「もちろんよ」
その約束の通り、紫乃はできるだけかさこさんを連れて歩きました。
さすがに降水確率0%のときはお留守番をお願いしましたが、それ以外はいつも一緒です。なくさないよう、傘立てにもなるべく入れないようにしました。
その日も紫乃はかさこさんを連れて、電車に乗っていました。
紫乃は長椅子の端っこに座って、かさこさんを手すりに掛け、うつらうつらしていました。最近はアルバイトも始めて、忙しかったのです。
(ちょっとだけ。目をつぶるだけ)
そう思っていたのに、ハッと気がつくと、もう降りる駅でした。ドアが閉まろうとしています。
慌てた紫乃はとるものもとりあえず、急いで電車を降りてしまいました。
「しのちゃん! しのちゃん! わたしのこと忘れてる!」
紫乃がハッとして振り返ったときには、ドアはもう閉まり、電車が動き出していました。
「かさこさん!」
慌てて電車を追いかけましたが、かさこさんとはそれきり、離れ離れになってしまいました。
陽平は、電車の窓を打ちつける雨音に舌打ちをしました。
電車に乗る前は晴れていたので、傘を持っていません。
いつもなら濡れればいいやと思うだけですが、今日だけはそういうわけにはいきません。別居中の妻と娘に、久しぶりに会える日だからです。
妻の視線はいつでも冷たく、濡れて行こうものなら、すぐに帰ると言い出しかねません。それになにより、娘にみすぼらしい姿を見せたくありませんでした。
降りるのは、小さな駅です。売店があるかどうか怪しいものでした。
ため息混じりに車内を見回すと、真向かいの席の手すりにビニール傘が一本、置き忘れられていました。
陽平は何気なさを装って、もう一度ゆっくりと車内を見渡しました。
遠くの席に一人、携帯電話をいじっている若い男がいるだけで、車内はガラガラです。間もなく陽平が降りる駅のホームに電車は滑り込んでいきましたが、ホームも閑散としていました。
陽平はその傘を通り過ぎざまにサッとかすめ取ると、ホームへと降りていきました。
忘れ物とはいえ、人のものを取ったのは、初めてです。泥棒は、がめついやつのすることで、かっこ悪いと思っていましたが、背に腹は代えられません。
駅の出口に向かいながら傘をよく見ると、何やら文字が書かれていました。
「かさこ? 持ち主の名前か? まあ、いいか」
陽平が一人ごちると、突然その傘から声が聞こえました。
「そうよ。わたし、かさこっていうの」
「うわ、なんだ!? 傘がしゃべった!?」
「そうよ。わたし、おしゃべりする傘なの」
陽平は、思わず傘を取り落としそうになりましたが、気を取り直してギュッと傘を握り直しました。雨の向こうに、妻と娘の姿が見えたからです。
「悪いが、おとなしくしてくれねぇか」
「いいわよ、いいわよ。わたし、静かにできる傘なの」
ピタリとおしゃべりをやめた傘を広げ、陽平は妻子のもとへ向かいました。
「お父さん!」
娘にそう呼ばれるだけで、涙が出そうになりました。
「花凛、元気だったか?」
「うん! お父さんの傘、かわいい。女の子の傘みたい。どうしたの?」
「ああ、ええと、その……もらったんだ」
陽平は、妻の顔色を気にしながら答えました。
勝手に持ってきたと知られたら軽蔑され、今度こそ離婚してくれと言われるのは目に見えています。
「気に入ったんなら、あげるよ」
「やったー」
そのあと雨がやんだので、陽平は花凛に傘を渡しました。
花凛は、傘をくるくる回して雨粒を飛ばして遊んでいます。
「お父さん、見て! 虹ができた!」
「おお、すごいな」
(ありがとな、かさこさん。久しぶりに娘の笑った顔を見たよ)
知らず知らず、陽平も久しぶりに笑っていたのでした。
花凛は、お父さんにもらったばかりの傘を回して遊んでいました。
少し離れたところでは、両親が話をしています。
二人は、しかめっ面をしていました。二人とも花凜を見るときは笑ってくれるのに、二人で向き合うと難しい顔をしてばかりいるのです。
そんな二人を見ていると悲しい気持ちになるので、花凜はプイッと目をそらして、傘を見ました。
お父さんが持っているには、かわいらしすぎる気がする傘です。透明なビニール傘に、シールみたいなもので、いろんな絵が描いてあります。こういう傘は見たことがなくて、花凜はひと目で好きになったのでした。
柄をギュッと握りしめていた手を開くと、そこにもシールが貼ってあり、何か書いてあります。
花凜は、指でなぞりながら読み上げました。もう小学生ですから、ひらがなはお手の物です。
「か、さ、こ?」
「そうよ」
「わっ」
花凜は驚いて、傘を放り投げてしまいました。
「わたし、かさこっていうの。あなたは?」
「わたし……かりん」
「かりんちゃん、よろしくね」
花凜は、「かさこさん、放り投げてごめんね」と言って、拾い上げました。
「いいのよ、いいのよ」
「傘なのに、おしゃべりするの?」
「そうよ、わたし、おしゃべりする傘なの」
花凜はお父さんとお母さんにかさこさんを見せようとしましたが、二人は相変わらず難しい顔で話し込んでいるので、やめました。
「かさこさん、あのね。お父さん、お金がないんだって。あったらあっただけ使っちゃって、うちにはお金がなくなっちゃうから、離れて暮らしてるの」
「ふうん」
「だから、お父さんには、お誕生日にもクリスマスにも何にももらったことがないんだ」
「それなら、わたしはかりんちゃんがお父さんにもらった初めてのプレゼントなのね!」
「そうだね!」
花凜は嬉しくなって、その晩、家に帰ってからもかさこさんを離さず、枕元に置きました。
「かさこさん、あのね……」
眠りにつく前、花凜はかさこさんに話しかけました。
「わたし、ちょっぴりお父さんのこと、嫌いだったんだ。勝手にお金を使って、お母さんを困らせて、一緒に暮らせなくなったんだもん。でもね、かさこさんが来てくれて、ちょっぴりお父さんのこと、また好きになったよ。かさこさん、ありがとう」
「わたしもかりんちゃんに会えてうれしいわ」
花凜は、にっこりして眠りにつきました。
浅美は、娘の花凜の寝顔を見ながら、少し心配になっていました。
父親に傘をもらったことを喜んでいるのは、まあ良いのですが、娘がその傘に話しかけていたからです。
小学一年生の花凜は、人形遊びはまだまだ好きですが、ただの傘に話しかけるような子ではありません。
父親がおかしなものをあげたから、幼児退行してしまったのでしょうか。なんだか傘が、気味悪く思えます。
しかも、ただのビニール傘ならまだしも、何やら装飾がしてあります。こんな明らかに手作りのものを大の男が差してきたというのも、陽平への嫌悪感を強めました。
陽平は不器用で、手芸のようなことをする男ではありません。誰か別の人が、たぶん女性が作ったものを陽平は持ってきたのです。その証拠に、この傘はもらいものだと白状していました。
離婚したくないと言っていましたが、他の女性を匂わせる人と復縁したい女がどこにいるでしょうか。
花凛には申し訳ないことですが、花凜が学校に行っているうちに、傘を捨ててしまおうと決めました。どうせ花凛は学校指定の黄色い傘しか使えませんから、ビニール傘など持っていても使い道はないのです。
善は急げとばかりに、浅美は花凛を学校へ送り出すと、傘を掴んで外へ出ました。
「悪いわね」
(いいのよ、いいのよ)
そんな声が聞こえた気がしましたが、空耳でしょう。
ゴミの日ではなかったので、近所に捨てるわけにはいきません。浅美は歩きながら頭を悩ませました。
スーパーかコンビニは、どうでしょうか。お店の前に傘立てがあるかもしれません。そこに傘を置いて買い物をし、帰りに忘れて帰れば良いのです。
浅美は、どこか都合の良さそうなお店がないかと、キョロキョロしながら歩き回りました。
すると、コンビニの前の歩道で、おばあさんがうずくまっているのを見つけました。
具合が悪いのでしょうか。
通行人は、見向きもせずに去っていきます。
浅美も通り過ぎようとしましたが、やっぱり気になって立ち止まりました。傘を勝手に捨ててしまう以外に、娘に話せないことはもうしたくなかったのです。
「あの、どうしました?」
恐る恐る話しかけると、おばあさんは顔を上げました。
「ああ、ごめんなさい。腰が痛くて」
そう言ってヨロヨロと立ち上がったので、浅美は手を貸しました。
「ありがとう。いつもは杖を持っているんだけど、今日は調子がいいし、すぐ近所だからと置いてきたら、やっぱりだめね」
おばあさんは浅美の手を離して歩き始めましたが、少し行くとまた立ち止まってしまいました。
「あの!」
浅美は、おばあさんの前まで駆け寄りました。
「よかったら、この傘を杖のかわりに使ってください」
「あら。いいの?」
「ええ、処分してしまうつもりだったので」
「じゃあ、遠慮なく。ご親切にありがとう」
浅美はおばあさんが見えなくなるまで、見送りました。
これで花凜には、傘は困っているおばあさんにあげたのだと言うことができ、嘘をつかなくて済むようになりました。
(こちらこそ、ありがとう)
浅美は、心の中で呟きました。
いいのよ、いいのよ、という声が小さく聞こえた気がしましたが、やはり空耳でしょう。
篤紀が祖母の家の前に着くと、ちょうど祖母が帰ってくるところでした。ビニール傘を、杖のように使っています。
「おばあちゃん、これから行ってくるよ」
「あら、もう行くの?」
篤紀は海外に出かけるところで、スーツケースを転がしていました。長期出張に出かける前に、祖母に挨拶していこうと寄ったのです。
腰の悪い祖母を玄関の中まで送ると、ポツポツと雨が降り始めました。
「傘は持ってるの?」
「いや。これから行くのは、あまり雨が降らない国だからね」
「それまでに濡れたら大変。これを持っていきなさい」
祖母は杖がわりにしていたビニール傘を押しつけてきました。
荷物になるなと思いましたが、祖母の親切を断るのは忍びなく、礼を言って傘を受け取りました。
途中で捨ててしまおうかと思いましたが、ビニール傘と言っても祖母がくれた傘ですから、なんとなくためらってしまいます。それに、持ち手のところに何か書いてありました。
「かさこ?」
なにげなく篤紀が読み上げると、すぐ近くから女の声がしました。
「そうよ! わたし、かさこさんって言うの」
「うわ! 傘がしゃべった!?」
「そうよ。わたし、おしゃべりする傘なの。よろしくね」
篤紀は驚きましたが、あまりにもかさこさんが楽しそうなので、笑ってしまいました。
「かさこさんか。ビックリしたな。しゃべる傘なんて、これまでいろんな国に行ったけど、初めて会った。聞いたこともないよ」
「あら、でもわたしはおしゃべりする傘なの」
「そうみたいだな。おばあちゃんがくれた傘だから、不思議なこともあるんだろう」
篤紀は狐につままれたような気分でいましたが、狐につままれるだとか、眉に唾をつけるだとかいうおかしな言葉が出てくる昔ばなしをたくさんしてくれた祖母のくれたものなので、そんなこともあるのかもしれないなと思いました。
「あなた、いろんな国に行くの?」
「そうだよ。ちょうど今からも外国に行くところなんだ。かさこさんも一緒に来るかい?」
「もちろん、もちろん。外国なんて、楽しみね」
港から港への船旅の間、傘は必要ありません。雨が降ったら、乗客は外に出ないからです。
それでも、かさこさんに海を見せてあげたいと、霧雨の降ったある日、篤紀は傘を差して甲板に出ました。
そのときです。
ビューッと強い風が吹いて、かさこさんは飛ばされてしまいました。
篤紀は慌てて手を伸ばしましたが、かさこさんは空の上へ上へと飛ばされていってしまいました。
かさこさんは風に乗って、遠く遠くに飛ばされていきます。
やがて風が小さくなると、ゆっくり地面に横たわりました。サラサラした黄色い砂の上です。
「これなあに?」
砂漠の子どもたちが、かさこさんを見つけました。
「パラソルじゃない?」
「こんなに透明じゃ、日陰にならないじゃないか」
「ほんとだ。変なの」
「珍しいから、王様にプレゼントしようよ」
子どもたちは、その傘を王様に献上しました。
王様は喜んで、部屋にかさこさんを飾りました。
「何か書いてあるが、この国の言葉ではないな」
王様は国を訪れる旅人たちに、尋ねてみることにしました。
来る人来る人に尋ねて何十人か目、ようやくある人が言いました。
「これは、おそらくこう読むのです。か、さ、こ」
「そうよ! わたし、かさこっていうの」
「傘がしゃべった!?」
「そうよ。わたし、おしゃべりする傘なの。ああ、久しぶりにお話しできてうれしいわ」
みんなは驚いて、化け物かといきりたちましたが、王様が制しました。
「かさことやらの話を聞こう」
「わたしはね、おしゃべりする傘なの。かさこっていうのよ。わたしのお名前をつけてくれたのは、紫乃ちゃん。わたしの初めてのお友達よ。それから、それから、お話たくさんあるわ」
かさこさんは、これまで出会ったたくさんの人たちのことを、王様たちに話しました。王様も、砂漠の国のことをたくさん教えてくれました。
そして、満足した王様は、かさこさんにこう言いました。
「楽しませてくれて、ありがとう。礼をしたいが、何がいい?」
「わたしは傘なの。雨に濡れたいわ」
「ううむ、この国ではなかなか難しいな」
「それなら、わたしの名前をくれた紫乃ちゃんに会いたいの」
「では、わたくしにかさこさんを預けてくださいませんか?」
旅人が言いました。
「これから出会う人たちに、尋ねてみましょう。日本に行く人がいたら、託してみましょう」
「おお、それがいい」
旅人は、かさこさんを持って砂漠の国から出て行きました。
旅をしながら出会う人、出会う人に、かさこさんを知っている人はいないか、日本に行く人はいないか尋ねます。
人から人へ、かさこさんは渡ります。
ようやく日本に帰るという若者が見つかり、かさこさんは日本へ戻ってきました。
「ああ、ひさしぶりの雨。うれしいわ。冬哉くん、ありがとう」
「どういたしまして。かさこさんの名前をつけてくれた人、SNSやってるかな? 投稿してみるね」
元旅人の冬哉は、かさこさんの写真を撮って、インターネットにアップしてくれました。
「これできっと、また会えるよ」
冬哉は家に帰ると、玄関の傘立てにかさこさんを置きました。
「ここで、しばらく待っていてね」
ちょうどそこへ、冬哉の弟の夏樹が玄関へ出てきました。
「兄さん、久しぶりだね。お帰り」
「ああ、ただいま」
「旅はどうだった?」
「面白い話がたくさんあるよ。けれど、出かけるところだったんだろ? 帰ってきてから聞かせるよ。いってらっしゃい」
夏樹が玄関を出ると、雨が降り出していました。
夏樹は慌てて玄関に戻って手近な傘を掴み、駆け出しました。塾の時間に遅れそうだったからです。
なんとか間に合い、授業を終えて塾を出ると、前から気になっていた女の子が傘をさして出るところでした。
「ねえ、近くまで入れてってよ」
夏樹は、その子の傘の中に飛び込みました。
自分が持ち出した傘のことは、すっかり忘れていました。
小百合は、職場の傘立てに忘れられた傘を回収しました。
忘れ物は、たいていそのまま忘れ去られてしまいます。持ち主が探しに来るのは、幸運なごく一部のものだけです。身近にあるときには大事にされたり、毎日使ったりしていた鉛筆やハンカチも、なくしてしまえばまるで初めから無かったようにされてしまうのです。
自分だってなくしものをしてしまったことは何度もあるのに、でもきっとだからこそ、小百合はなんだか忘れられた物たちがかわいそうで、そして申し訳ない気がしました。
だから、小百合は年度が終わる頃になると、受付カウンターに忘れ物を広げることにしました。なくしたことに気がつかなくても、実際に物を見れば、思い出してもらえるものもあるのではないかと思ったからです。
「卒業生の皆さん、あなたのものはありませんか?」
小百合が声をかけるのは、中学生たちです。
「忘れ物って、傘もありますか?」
そう話しかけてきた子も、卒業生でした。
「ええ、ありますよ」
その子は、なぜだか必死な顔でカウンターに向かい、ビニール傘を一つ一つ手に取りました。
傘は何十本もあります。
どれだけ探したか、その子はパッと一本の傘を取り上げました。
「かさこ、さん?」
古びた傘でした。透明なビニールには、何やらカラフルなシールのようなものが貼ってあります。
「なあに?」
「かさこさん! わたし、紫乃よ!」
小百合は、紫乃が大声を出すので、びっくりしました。
紫乃はこの塾でアルバイトをしていた大学生です。夢を叶えて、次の4月から中学校の先生になる紫乃も、この春でアルバイトを卒業するのでした。
「あらあら、しのちゃん、おひさしぶり。わたし、かさこよ」
「えっ! 傘がしゃべった!?」
思わず声を上げてしまった小百合に、かさこさんは歌うように言いました。
「そうよ。わたし、おしゃべりする傘なの。聞いてもらいたいお話、たくさんあるわ」
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