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第十話:幸福な酩酊
ごとん、ごとんと眠る場所が揺れる。
夢の中でサフィルは、懐かしい音を聞いていた。
昔。
流れの民と共に各地をさすらっていた時、幼いサフィルが居る場所は馬車の中だった。母と身を寄せるようにして長い移動の時間を耐える。
いつも、ごとんごとんと、車輪の回る音が側で響いていた。
懐かしい音に、サフィルの胸がきゅっと痛んだ。
母は、歌と踊りが上手だった。
それで流れの民に受け入れてもらったのだろう。
さすらいの暮らしは、決して楽しいことばかりではなかった。
災いごとが起こると、それはいつも自分たちのせいになる。
それでも、流れの民は各地を移動し続け、一ヶ所に留まり住むことはなかった。
どこへこれから行くのか。
いつまでここにいるのか。
解らないままにサフィルは流れの民に混じって暮らす。
どんなに辛いことがあっても、サフィルは母さえ側にいてくれればそれで良かった。母親のいるところが自分の居場所だった。
ずっと続くと思っていた流れの民との暮しは、唐突に終わりを告げた。
母が病を得たのだ。
流れの民は病気の母を見捨てた。元々彼らの一族ではなかったせいかもしれない。彼らは、たまたま行き当たったアンリカ村に自分と母親を残して去ってしまった。
捨てられた親子を拾ってくれたのは、村のはずれにある教会の司祭さまだった。実の家族のように、フォルド司祭さまは自分たち親子を大切にしてくださった。
なのに――
どうして。
フォルド司祭さまは、自分を殺そうとなさったのだろう。
悲しみから逃れようとするかのように、サフィルは身を捩った。
その途端、ずるりと体が何かの上から滑り落ちていくような感覚をおぼえる。
はっと気づくと、身体が強い力で支えられていた。
「このソファーはあまり広くないからね」
もう耳に馴染み始めた、優しい声が響く。
「寝返りを打つと落ちてしまうよ、サフィル」
微笑むシューガの姿が視界に広がる。
どうやら自分は狭いソファーの上から、落ちそうになっていたらしい。
「あ」
驚きのあまり声を出してから
「ありがとう、シューガ」
と何とか礼の形に持っていく。
もぞもぞと動いて体をソファーの座面に収めると、シューガは笑いながら手を離した。
「良く寝ていたね、サフィル。すっきりしたかな」
微笑むシューガは、もういつもの茶色の髪に戻っていた。
サフィルは少し落胆する。
思ったよりも自分は銀色の髪のシューガの姿が好きになっていたようだ。
「今は午後を過ぎたぐらいだよ。あと五時間ほどで出発できる。それまでゆっくりと身を休めるといい」
穏やかにシューガが語り掛ける。
「解った」
答えてから、サフィルは周りをきょろきょろと見回した。
そこに、大きな黒い蝙蝠の姿も、黒髪の青年もなかった。
「ヴァドーは?」
もう一度、きちんとフォルド司祭のことで礼を言おうと思って、サフィルはシューガに問いかけた。
「彼なら出かけているよ。たぶん日暮れまでには戻ってくると思うが」
さらりとシューガが言葉を返す。
「何かヴァドーに用事かな?」
本当なら命を奪うところを、フォルド司祭さまを助けてくれて嬉しかったと、彼に伝えたいと思ったが――
「大したことではないから、いいんだ」
とサフィルはちょっと顔を赤らめて呟いた。
だんだん意識がはっきりと目覚めてくると、眠り込む前にシューガと交わした言葉が記憶に蘇ってくる。
異界の門の不思議な話の後、ヴァドーの煽るような行動に、自分はひどく憤慨してしまった。
どうしてあんなに必死になってしまったのだろう。
ただ。
ヴァドーがシューガの血を飲むと思った途端、憤りのような感情が内から湧き上がってきて止められなくなってしまった。
自分は嫌だったのだ。
誰かがシューガの血を飲むことが……
頬を染めてうつむくサフィルの髪に、シューガの手が触れた。
「サフィル」
ごく静かな声で、シューガが呟く。
「もしヴァドーが帰ってきても、謝礼の代わりに血を与えてはいけないよ」
何気ない言葉だった。
だが。
そこにこもる聞きなれない感情に、思わず弾かれたようにサフィルは顔を上げた。
「とっさに良かれと思って口にしたのだとは思うけれど、相手に要らぬ誤解を与えてしまうこともあるからね」
困ったように微笑みながら、シューガが呟いている。
髪に触れていたシューガの手がそっと動き、サフィルの頬に触れる。
熱を帯びた肌に、冷たい指先が心地よかった。
「とても大切なことだから、約束してくれないか、サフィル。ヴァドーだけでなく誰にも、簡単に血を飲ませてはいけない。いいね」
深い藍色の瞳を見つめながら、サフィルは考える。
もしかしたら――
シューガも自分と同じような想いを抱いてくれているのだろうか。
売り言葉に買い言葉のように、自分が彼の代わりにヴァドーに血を与えると宣言した時、かつてないほど激しい口調でシューガは制した。
彼も嫌だったのだろうか。
今も。
誰にも血を与えてほしくない、と。
そう、シューガは言っているような気がする。
確約を求めるような言葉に、サフィルはただうなずいた。
「約束する。シューガ以外の誰にも血は飲ませない」
なぜか。
とんでもなく恥ずかしいことを口にしているような感覚に捉われながら、サフィルはたどたどしく誓った。
瞬間。
花が開いたように、にこっとシューガが笑みをこぼす。
思わず見惚れてしまうほど、美しい微笑みだった。
その笑顔を目に映していると、どくり、どくりと内側に急激に血が流れていく音が響いた。
体が、かっかと熱くなっていく。
「シュ、シューガも約束してくれないか」
どくどくと内に流れる激しい血の音を聞きながら、思わぬ強い口調でサフィルは懇願を呟いていた。
「俺以外の誰にも、血を飲ませないでくれ」
なぜか泣きたいような気持になりながら言葉を続ける。
「頼む」
「ヴァドーの戯れが、よほど嫌だったのだね」
笑みを深めてシューガが呟く。
「辛い思いをさせてすまなかった――」
頬に触れた手を動かしながら、シューガが穏やかな声で告げる。
「安心してほしい。私の血は君のものだよ、サフィル」
優しい誓いの言葉を聞いた途端、ドクンと激しく内側に衝撃が走る。
身の内側に取り入れたシューガの血が、燃えるような熱をもって体中を巡るようだ。
「あっ……」
衝撃のあまり呻き声が口からあふれた。
熱い、熱い。
体がおかしい。
荒い息を吐きはじめたサフィルの異変に、シューガが素早く気付いてくれる。
「どうした、サフィル。苦しいのか?」
解らないという意味を込めて、懸命に左右に首を振る。
耳元で激しく血が流れていく音がする。
息がだんだんしづらいような感覚に捕らわれる。
体が熱い。
喉が。
ひどく渇く。
頬に触れているシューガの腕を、縋るように握りしめる。
抑えられない熱が、内側から膨れ上がってくるようだ。
「熱が出てきている……変性が進んでいるのか?」
独り言のように呟きながら、ソファーに横たわるサフィルの額に冷たい手の平が触れる。
「喉が渇いているか? サフィル」
ぼんやりと潤み始めた視界の中に、心配げに自分を見つめるシューガの眼差しがあった。
ほしい。
シューガの血が、ほしい。
湧き上がる衝動を口に出来ず、はっ、はっと短い息を吐いて懸命に熱を逃そうとする。眠る前に、自分は十分シューガの血を飲ませてもらったはずだ。
傷もきちんと治っている。
なのに、どうしてこんなにも飢餓感が込み上げてくるのだろう。
飢えを露わにするように、上の歯が二本伸びていくのを感じる。
どうやら血を欲すると牙が無意識の内に出てきてしまうらしい。
荒い息をこぼす口元に牙がのぞく。
自分で自分の変化に戸惑いながら、サフィルは少し眉を寄せるシューガを見つめる。
彼は、自分の口に生えてきた二本の牙に気が付いているらしい。
サフィルの唇に軽く触れてから、
「そうか。身を傷つけられたために、生存本能が活性化したんだな」
と、再び問わず語りに呟く。
息が乱れる。
「……シューガ……俺……変だ……」
切れ切れに呟いたサフィルの言葉に、
「大丈夫だよ、サフィル。君の体の中で変化が起こっているだけだ。身が傷つけられると、私たちの一族はより強く体を作り変えて、敵に対抗しようとする。その本能がサフィルの変性を早めてしまっているだけだからね。恐がることは何もないよ」
となだめるよう呟く。
「私の血を飲めば落ち着くだろう。ほら、もう一度飲んでごらん」
言葉と共に、白い首筋がサフィルの前にさらされる。
皮膚の奥に流れる芳しい血の香りが、鼻孔をくすぐった。
瞬間、内側をかきむしられるような衝動が走る。
思わず声が出る。
「苦しいね、サフィル。私の血を飲んで楽になるといい」
そう言われて首元を唇の近くに押し付けられるが、サフィルは震えながらもそれを拒んだ。
「どうしたんだ、サフィル。嫌なのか?」
驚いたようにシューガが問う。
サフィルはふるふると頭を振った。
「俺は……たくさん、シューガの血を飲んだ」
意識が朦朧としながらも、懸命にサフィルは訴える。
「血が流れ過ぎたら、シューガが、死んでしまう」
血は流れ過ぎると命を止める。
それがサフィルは恐かった。
シューガの命を自分が奪ってしまうことが――
一瞬、驚いたようにシューガは目を見開くと、静かに微笑んだ。
「それなら大丈夫だよ、サフィル。私たちの一族は再生力が強い。肉体も血も同じことだ。すぐに元に戻すことが出来る」
「ほん……とうに?」
ためらいがちに問いかけると、笑いをこぼしてシューガがうなずいた。
「本当だよ、サフィル。君が飲んだ分の血は、もう補充してある」
そう、なのだ。
「それに」
そっと頬に触れながら、シューガが呟く。
「君にだったら、最後の血の一滴までも啜られてもかまわない」
どくんと、血が跳ねる。
頬が熱くなる。
無上の言葉を今、聞いたような気がした。
「私の血で飢えを充たすといい――サフィル」
どこかで、これと同じ言葉を自分は聞いた。
その時彼は、アンリと、優しい声で自分を呼んでいた。
「シューガ……」
縋るように伸ばした腕の中にシューガが体を預け、そのまま首筋をサフィルの前に寄せた。
思考が混濁していく。
血が、ほしい。
シューガが……ほしい。
衝動のままにサフィルはシューガの身を腕に包んで引き寄せ、首に舌を這わせた。
ゆっくりと舐め上げて、皮膚を痺れさせてから、大きく開いた口でそのまま牙を突きたてる。
くぐもった声がシューガから響いた。
「本当に上手に飲めるようになったね。とても気持ちがいいよ」
その褒め言葉に心が痺れる。
こくこくと血を飲んでいると、シューガが優しくサフィルを抱き締めてくれる。
「美味しいかい?」
笑いを含んだ問いに、小さくサフィルは頭を揺らした。
「そうか。それは何よりだ」
声が、自分の唇が触れる場所から響く。
シューガ。
シューガ。
魂で呼びかける。
「よほど渇いていたのだね。かわいそうに」
愛しげな呟きが唇越しに伝わる。
「君は我慢強いね、サフィル。こんなに飢えていたのに、私を思い遣って辛抱しようとしていたのだね」
髪に手が触れた。
「いい子だね、サフィル。いい子だ」
その言葉に、心と身が充たされていく。
ようやく渇きが鎮まると、サフィルは牙をそっとシューガの首筋から抜いた。
舌を傷口に押し当てて懸命に血を止めようと舐めとる。
サフィルの舌の動きに、かすかな吐息をシューガがもらした。
「満ち足りたか?」
頭を撫でながら呟かれた言葉に、サフィルは頷きで答えた。
言葉を返したいのに、身に入れた甘美な血の滴に軽い酩酊状態になり、声が出ない。
「そうか……なら」
ゆっくりと身を離しながらシューガが呟く。
「私にも、サフィルの血を与えてくれないか」
わずかな距離をとって、シューガがサフィルを見つめる。
いつの間にか、彼の髪は銀色に変わっていた。
深い緑色の目を細めて笑うと、その口元から真珠のように白い二本の牙がのぞく。
気付く。
シューガは自分の血を欲してくれている。
二本の長い牙を目に映して、鼓動が激しくなる。
声が出ないままにサフィルは懸命にうなずきで想いを伝える。
ふふっと笑いをこぼして、シューガがサフィルの首筋に顔を寄せた。
「君の血は極上の香りがするよ」
深く抱き締められ、身動きが出来ない状態で首筋に温かな舌が這う。
その刺激だけで、酔いを得たように痺れていた身体が、びくりと震えた。
「あっ、んっ」
思わずこぼした声に、シューガが
「良い声だね、サフィル。もっと聞かせておくれ」
と呟き、柔らかく唇を首筋に添わして滑らせた。
びくびくと身が痙攣する。
シューガのまとう血の香りが、自分の中からもあふれてくる。
身の内に取り入れた彼の命の滴が、中で呼応しているようだ。
ゆっくりと舌と唇で慰撫した後、シューガの牙が不意に首筋につきたてられた。
身を反らして、サフィルはその衝撃を受け止めた。
シューガが先ほど、気持ちがいいと言っていた意味が、彼の牙に身を裂かれ血を啜られながら深く得心がいく。
彼の中に自分の血が飲み込まれていくことが、どうしようもないほどの快楽を生む。
身の内側が痺れて、意識が遠くなってしまいそうだ。
触れるシューガの中から、自分の血の香りが漂い出す。
それが、五感を刺激してさらなる喜びを招いた。
「ああっ……あ……ん……」
血を啜られながら、意味をなさないうめき声をあげることしか出来ない。
先ほどとは違う熱が内側に溜まり始める。
体の芯が熱い。
血を失っているはずなのに、それを上回る何かを与えられているような気がする。
これほどの喜びがあるだろうかと思うほどに――
サフィルはかつてない幸福感に浸っていた。
シューガがゆっくりと牙を浮かせ、サフィルの首から温もりが離れていく。
舌が傷口を丁寧に舐めとる。
彼が触れる場所がぐんぐんと癒えていく。
熱い息を吐くサフィルを上から見つめると、シューガは微笑み、そのまま唇を重ねた。
互いの血の香りが籠ったままのくちづけは、さらなる酩酊を呼ぶ。
息すらしづらいほどの幸福感の中で、シューガの背に手を回してサフィルはぎゅっと抱き締めた。
きっと。
シューガだからこんなにも幸せなのだ。
その事実だけを、霞む意識の中でサフィルは握りしめ続けていた。
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