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プロローグ:はじまりのはじめ
「ああ、ああ。よしよし。そうがっつくな」
笑いを含んだ言葉が、呟かれた。
なだめるような声と髪を滑る手に慰撫されながらも、灼熱の飢えに身が焦げる。
鼻孔をくすぐる香りが目の前の人から漂ってくる。
甘美な匂いに、思考が根こそぎ持っていかれてしまう。
何も考えられない。
求めるものへと、懸命に身を寄せる。
「腹が減っているんだな。よしよし」
あやすように言いながら、彼は首を傾け無防備に喉元をさらしてくる。
どくんと、心臓が跳ね上がった。
「ほら、遠慮なく喰え。最初の食事は強烈だぞ」
差しだされた首筋の白さしか目に入らない。
飢餓感が、身を苛む。
震える手を彼に延ばして、掻きつくようにして身を寄せる。
彼の中をどくどくと巡る血の芳しい香りに、めまいがしそうだ。
噛みつきたい。
血が飲みたい。
本能のままに動こうとした瞬間、体の内側から声が聞こえた。
――やめろ。
深く、制止する声だった。
――飲んではならない。後戻りできなくなる。
激しい飢餓感の中にあっても、たしなめる内側の声に動きを止める。
全身から嫌な汗が滲んでくる。
彼の喉に、しゃにむに歯を突き立てたい。心ゆくまで温もりのある液体を味わいたい。
激しい衝動が身をブルブルと震わせた。
それでも、必死で堪え続ける。
「どうした」
優しい声と手が、自分を包む。
「早く飲まないと、身が枯れてしまうぞ」
彼の声に重なるように、内側から再び言葉が響く。
――その方がいい。異形に変じる前に自らの生を止めた方が。
異形に、変わる?
それなら死んだ方がいいと、誰かが自分に命じている。
荒い息をつき、全身を痙攣させながら、衝動に耐え続ける。
苦しい。
苦しいよ、母さん。
「我慢をしなくていい」
手が、髪を滑っていく。
「ほら。飲め」
髪を撫でていた手に力が籠り、ぐっと彼の喉元へ顔が押し付けられた。
白い首筋が、目の前にある。
滑らかな肌が輝くようだ。
皮膚の内側にあってもなお、鼻孔をくすぐる血の芳香にわずかに残っていた理性が吹き飛んでいく。
歯を突き立てたい。
血を飲みたい。
全ての思考が、赤く染め上げられていく。
「ふうっ、ううっ」
獣じみた声が、自分の口から漏れている。
苦痛に顔が歪む。
「よし、よし」
目の前の人の喉元が震え、声が響く。
彼の手が滑り自分の顎を捕えた。
「腹が減っているのだろう。こらえなくて良いんだよ。ほら」
思いもかけない強い力で、唇が彼の首筋に押しつけられる。
「君の食事は、ここにある」
真っ白な喉が、血液の流れにどくどくと脈打っている。
香気が、脳を痺れさせる。
触れた唇の先が甘美な血の存在をかぎ取り、震える。
無意識に口を開いていた。
舌先で、首を舐めとる。
自分は舌で、血の流れる場所を確認しているのだと、どこか冷静な頭の隅で思う。
探り当てた。
この下に、甘やかな液体が潜んでいる。
飢餓と喉の焼けつくような渇きが、身を震わせ続ける。
「ううっ、ううう」
それでも、歯を突き立てられない。
飲みたい。
けれど。
飲んではいけない。
誰かがそう、命じていた。
異形になるぐらいなら自ら飢えて死ねと。
二つの感情の葛藤の中で、絞り出すように苦しい声が口からこぼれおちる。
「大丈夫だよ」
再び、髪に手が滑る。
「何も怖くない。君はもうやり方を知っているはずだ」
髪に、彼の唇が触れた。
「私の血で飢えを充たすといい――アンリ」
命じる言葉と、呼ばれた名と。
二つが最後に残っていたためらいを消した。
襲いかかる飢餓感に突き動かれるままに、開いた口から長く伸びた二本の牙を、深々と白い首筋に沈めた。
瞬間、口中に香りが広がる。
くらりと、めまいがするほど極上の甘さが舌を痺れさせた。
自分が開けた二つの穴から、夢中で彼の血液を啜り続ける。
「手加減なしか」
ふふっと、笑いの息が彼の喉を震わせている。
「よほど、腹が減っていたんだな」
優しい声が耳元に降り注いだ。
声に浸りながら唇を喉に押し当てて、赤子が乳を求めるようにひたむきに血を吸い上げる。
充足感が、体中を巡り始めた。
さっきまで、あれほど飢えと渇きに苛まれていたのに、身に取り入れた命の雫が体中を満たしていく。
幸福感で、思考が濁り始めた。
酔いを得たように、内側がどうしようもなく、熱い。
「うっ、くっ、うう」
満足の呻きをもらしながら、こくこくと、赤い液体を飲み続ける。
頬が上気していく。
喉に取りつき血を啜り続ける間中、彼は支えるように髪を撫でてくれていた。
無心に飲み続けて、いつしか、もうそれ以上欲しくないことに気付く。
「腹がふくれてきたか」
飲みが鈍ってきた自分に、彼が優しく声をかけてくれた。
飢えが癒され、幸福感が身を覆っていた。
立てていた歯をそっと傷口から外す。
口を離すと、突き立てた牙の痕を舌先で柔らかく舐めた。
そうしたら傷が治るような気がしたのだ。
ぺろぺろと、犬のように舌を這わす自分を見つめて、彼がくすっと笑った。
「美味かったか?」
満たされた幸せに、ぼんやりとしながら、顔を上げて彼を見る。
銀色の髪がきれいな顔を縁どっていた。自分を見つめる双つの瞳は宝石のような緑色だ。
さらさらと肩から銀の髪がこぼれる。
まるで初夏に降る優しい雨のようだった。
慈愛に満ちた眼差しが自分に注がれている。
聖堂の天使さまにも似た面差しは、胸震えるほどに美しかった。
思わずぼうっと見惚れていると、その人が優しい笑みを浮かべた。
「こんなに口元を汚して」
長い指が伸び、そっと親指の先が唇を拭う。
「まあ、初めてだからな。仕方がないか」
微笑みながら、顔が近づいてくる。
「じきに慣れて汚さずに飲めるようになる。大丈夫だよ、アンリ。はじめてにしては上手に出来た」
呟きの後、唇が触れ合う。
さっきとは違う痺れが、身の内に広がっていく。
「うっ、うう」
言葉にならない呟きを彼の口元にこぼす。
「気持ちがいいのか?」
ぼんやりと濁る思考に、彼の声が響く。
潤んだ目で見上げていると、もう一度唇をふれ合わせて、彼はゆっくりと自分を押し倒した。
厚い絨毯の上に、身が横たえられていた。
唇を合わせたまま、彼は自分の身を覆う。
わずかに口を離すと、静かな呟きがこぼれた。
「今度は」
囁きが耳をくすぐる。
「私に食事をさせてくれ」
喉を潤した温かな液体に酔ったように、荒い息を吐きながら、自分に覆いかぶさる人を見つめ続ける。
体中が熱い。
息が乱れる。
様子に目を止めてから、彼は呟いた。
「熱が出ているな」
頬に、冷たい手が触れる。
「初めて血を飲んで、君の体が変化を始めているんだ」
するすると、指先が、火照る肌を撫でる。
微笑みが、彼の顔に浮かんだ。
「この瞬間は、一度しかない」
彼の顔が、唇から離れ下へと動いていく。
「私を、楽しませてくれないか。アンリ」
首筋に、冷たい彼の唇が触れた。
舌が首元を撫であげる。
ざりっと彼の舌が触れた場所から皮膚の感覚が鈍っていく。
酔いが深まったように体がふわふわとし始めた。
その瞬間、鋭いものが喉に突き立てられていた。
痛みではなかった。
甘美な痺れが、全身を襲う。
「ああっ!」
叫んでのけぞった身を、深く抱きしめながら、彼が喉に深々と牙を立てる。
すかさず、血が啜りあげられる。
ああ、と虚空に向けて、嘆息を洩らすことしか出来ない。
彼が血を飲んでいたのは短い時間だった。
口を離しながら
「類まれな味だ」
と、彼が呟く。
「我々の仲間になる瞬間の味など、何百年振りだろう」
ふふと、彼は微笑み唇を寄せる。
「君は、とても美味だよ。アンリ」
体が、熱い。
再び触れた唇から、芳香を放つ血が与えられる。
あまりの芳醇さに、酩酊したように意識が遠くなる。
――異形に変じる。なんということだ。
薄れ行く意識の中で、叱責を帯びた言葉だけが、いつまでも内側に鳴り響いていた。
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