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第一話:見知らぬ場所での目覚め
最初に感じたのは、ひどい眩しさだった。
瞼越しの光のはずなのに、刺すように感じられる。
光が、痛い。
ぎゅっと目をきつく閉ざし、光から逃れようとした。
「目が覚めたか?」
上から降ってくる声に、思わず眼を開く。
光の中に誰かの輪郭が滲んでいた。
けれど、あまりの刺激の強さにすぐさま目を閉じてしまう。
「ああ、眩しいのか。すまない。気遣いが足りなかったな」
その声と共に側に居た人が動き、シャッと音がして光が薄れた。
圧が去ったようだ。
ほっとして目を開くと、薄暗い部屋の中に白い服を着た人が立っていた。
茶色の短い髪をした男の人だった。
先ほどの光の強さに視界が白んで、はっきりと顔が認識できない。
「まだ光に馴染んでいないんだな。うっかりしていた。どうだ、体調は? 光以外に辛いところはないか?」
やけに親しげに話しかけてくる人に、全く面識はなかった。
戸惑いが目眩のように襲ってくる。
「――あんたは、誰だ?」
思わず問いかけた言葉に、ひゅっと男の人が片眉を上げた。
次第にくっきりとする視界の中に、人の良さそうな笑みを浮かべる青年が映る。彼は藍色の瞳を細めながら、呟いた。
「どうした、アンリ。私を忘れたのか?」
アンリ?
なぜこの人は、そんな名前で自分を呼ぶのだろう。疑問がそのまま口から滑り出ていた。
「俺はアンリじゃない。サフィルだ。なんで俺をそんな名で呼ぶんだ」
サフィルの言葉に、その人はさっと笑顔を消した。
一瞬の沈黙の後、ようやく呟きが聞こえる。
「まさか……記憶が、ないのか?」
記憶?
不審げに眉を寄せたまま、サフィルは言葉を返した。
「記憶ならある。俺はサフィル・ロッシュだ。アンリカ村の司祭さまのところで暮らしている」
彼は表情をこわばらせたまましばらく見つめていた。
わずかに眉を寄せると、ひどく切なげな微笑みを浮かべた。
「私のことを……忘れてしまったのか、アンリ?」
手を伸ばして、彼が頬に触れようとする。
とても整った顔の男だ。一度見れば忘れないだろう。
だが、サフィルの記憶の中に彼はいなかった。
「誰か別の人と間違えいてるんじゃないのか。俺はサフィルだ。アンリじゃない」
拒むようにわずかに身を引くと、彼の手が宙で動きを止めた。
長い緊迫した沈黙の後、彼はゆっくりと手を降ろした。
「そうか――奴のしわざか」
独り言のような言葉だった。
奴。
とひどく憎々しげに彼は言葉を滴らせた。
「どうあっても邪魔する気のようだな」
吐き捨てるように彼が呟く。
何を、と問う間を与えず、
「すまないが、ここに長居をすることはできないんだ、ア……サフィル」
アンリと言いかけて、彼は思い直したようにサフィルの名を呼んだ。
「日が落ちたら出発しよう」
その言葉に面食らう。
「出発って、どういうことだ」
サフィルはかけられていた布団を跳ねのけて声を放った。
「勝手なことを言うな」
ふつふつと湧き上がる怒りのままに、寝かされていたベッドから足を降ろして立ち上がる。
「俺は、帰る」
「どこへだ、サフィル」
「司祭さまのところへ、だ」
「それは無理だ」
手首をつかんで引き留めながら、見知らぬ男が言う。
「なぜ無理なんだ。ふざけるな」
手を振り払い、目に映った扉へ向かう。
「君はもう、アンリカ村には戻れない」
追いすがって再び腕を掴むと、男がサフィルにひどく冷静な声で言う。
怒りに火を注がれたように、サフィルは声を荒げて叫んでいた。
「ばかなことを言うな。なんで俺が戻れないんだ!」
「それは――」
一瞬言い淀んだ隙を突いて、サフィルは男の手を再び振り払った。
「俺は帰る。邪魔するな」
「やめろ、アンリ!」
男の手を逃れ、大股に部屋を横切り扉へ向かう。
閂があるから、これが外に出る扉のはずだ。
そう見切りをつけると、ノブを引いて扉を開け放った。
その瞬間、あまりの眩しさに目がくらみ、息が止まりそうになる。
皮膚が焼けたように痛い。
思わず悲鳴を上げそうになるサフィルの腕を掴むと、強引に部屋の中に引き戻し、男が素早く扉を閉じた。
そのまま腕を引きずって行かれ、台所へ連れてこられた。
問答無用で剥き出しだった皮膚に水がかけられる。
「ばかなことをするな。アンリ」
怒りを無理に抑え込んだような口調で、男が呟く。
「日に当たれば皮膚が爛れる。外に出られるのは、夜になってからだ」
痛みに顔を歪めながら
「なんでだ。なんで俺は日に当たれないんだ!」
とサフィルは叫んでいた。
「それは――」
再び男がためらう。
冷たい水のお陰で、皮膚のひりつきが治まってきた。それでも、動揺は消えない。これまで平気で太陽の下に出ていたのに、急な変化が納得できない。
「ここはどこなんだ。俺はなんでこんなところにいるんだ」
混乱をそのまま言葉に乗せて男にぶつける。
「答えてやれよ、シューガ」
不意に別の方角から声が飛んできた。
とっさに顔を向けると、梁からぶら下がる一匹の蝙蝠が見えた。
大きな蝙蝠だった。
黒い羽根をきれいに畳んで、紡錘形のまま蝙蝠が口を開いた。
「その甘ったれのお坊ちゃんは、自分の身に何が起きたのかを知りたいようだぜ」
「黙れ」
ナイフを投げるように鋭く、シューガと呼ばれた男が言葉を放った。
「今、この子は記憶を奪われている。やったのは奴だ。私たちの邪魔をする気らしい」
ふふっと蝙蝠が笑う。
「いいじゃないか。邪魔をさせておけば。どのみち、儚い抵抗にすぎない。時の車輪は動き出した。もう、誰にも止められない。奴もそれが解っているから、俺たちに嫌がらせをしているだけだ。放っておけばいい」
彼らは理解不可能の会話を重ねている。
サフィルは動揺が隠せなかった。
どういうことだ。
なぜ、蝙蝠が喋っている。
まさか――こいつらは魔物なのか。
闇に紛れて生きる者たちのことを、魔物というのだとサフィルは司祭さまから聞かされていた。
実際に目にするのは初めてだが、夜になってから移動するという言葉は、彼らが異形の者であることを証明しているようだった。
逃げなくては。
それだけを、サフィルは思った。
「余計なことを言うな。アンリが混乱する」
さっきはサフィルと名を呼んだのに、いつの間にか彼は自分のことをアンリと言っていた。
「俺は、アンリじゃない。サフィルだ」
せめてもの抵抗に、サフィルはそう再度告げてみた。
蝙蝠とシューガと呼ばれた男の目が、サフィルに向く。
「俺をアンリカ村の司祭さまのところに戻してくれ。ここがどこか教えてくれたら、自力で戻る。あんたたちのことは、決して他言しない」
争っても無駄だと薄っすら気づき、サフィルは譲歩する口調で言った。
蝙蝠が、くすっと笑う。
「おやおや。シューガが必死でアンリカ村からお前さんを助け出したというのに、そこへ戻る気か? 坊や」
不思議に凄みのある声で蝙蝠が呟く。
「戻ったら、殺されるぞ。お前さんの尊敬するフォルド司祭さまに、な」
「ヴァドー!」
きつく咎める口調で、シューガが叫んだ。
え?
と、驚きを顔に乗せて、サフィルはシューガを見た。
「どういうことだ。なぜ、司祭さまが俺を殺すんだ」
「それは、だな、アンリ」
軽薄な口調で告げようとした蝙蝠の言葉を、
「止めろ、ヴァドー」
と深く凄みのある声でシューガが制した。
「アンリの耳に余計なことを入れるな。私を怒らせたいのか」
「俺は知りたい!」
サフィルは叫んでいた。
「なんで司祭さまが俺を殺すんだ」
母親を亡くした後、親代わりになって育ててくれたのは、フォルド司祭だった。
いつも笑顔で自分を慈しんでくれた人が、命を奪うとは思えない。
「あんたらの言うことは信じられない。俺は、アンリカ村に帰る!」
不意に、サフィルの腕が掴まれた。
「駄目だ、ア……サフィル。アンリカ村へ戻ることは出来ない」
「なぜだ。あそこは俺の故郷だ」
ふっと目を細めてシューガは呟いた。
「そうだ。故郷かもしれない。だがそこに戻れば、君は確実に命を奪われる。あの蝙蝠の言っていることは本当だ。
私は、君を失いたくない」
ひどく真剣な口調で、シューガは告げた。
「私たちの言葉が偽りだと思う気持ちは解る。だが、頼むから、信じてくれ。
私は君の味方だ」
深い藍色の瞳が自分を見つめていた。
「君を不幸になどさせない。信じてくれ、アンリ」
記憶のどこかで、この名を聴いたような気がした。
アンリと、優しい口調で誰かが自分を呼んでいた。目の前の人ではない誰か――とても大切な人が。
頭がずきんと痛んだ。
思い出すなと、誰かが命じているようだった。
「俺は、アンリカ村に帰れないのか?」
問いかけた言葉に、目を細めてシューガが小さくうなずいた。
「危険だ。戻すことは出来ない」
「理由を尋ねても、あんたは教えてくれないんだろう」
「今のア……サフィルに言っても、混乱するだけだ。ただ、いつか必ず理由を話す。それまでは私たちを信じて行動を共にしてほしい。
決して君の不利益になることはしない」
信じた訳ではなかった。
ただ。
あまりに真剣な口調に、それ以上の反駁が難しくなっただけだった。
この男はアンリカ村に戻れば、自分が殺されると本気で思っていた。
そして、真摯に自分の身を案じていた。
言葉に嘘が混じっていないことを手触りのように感じ取る。
なら、信じているふりをして、相手を油断させればいいと、サフィルは思った。外に出れば自分がどこにいるか解るかもしれない。
そうしたら、逃げ出してアンリカ村に戻ればいい。
今は下手に争って、魔物たちが本性を出しても厄介だと判断する。
「これから……どこへ行くんだ」
最大限の譲歩をして、サフィルはそう訊ねた。
一瞬、シューガが梁にぶら下がる蝙蝠へ視線を向ける。何かを確認した後、彼は藍色の瞳を再びサフィルに向けた。
「カテポーだ」
その国名に、シューガは驚きを隠せなかった。
「二つ向こうの国じゃないか」
「そうだな。かなり長い旅になる」
「なんでそんなところに行かなくてはいけないんだ」
「必要あってのことだ。理由は追々話す。だが、今は黙って従ってくれ。頼む」
抵抗を止めたことに気付いたのだろう、シューガは静かに微笑んだ。
本当は。
アンリカ村にそれほど愛着があるわけではなかった。
流れの民の母親と旅を続けてたどり着いたのがアンリカ村だった。
そこで、母は体調を崩し、村の司祭さまが親切にも母と自分を教会に置いてくれたのだ。一年と少し患ってから、母は帰らぬ人となった。
その後、サフィルは追い出されることもなく、司祭さまの手伝いをしながら、村で暮らすことを許された。
けれど。
学びの場では流れの民であることを理由に、まともな扱いを受けてこなかった。
司祭さまに学校はどうかと聞かれても、とても楽しいとしか答えられなかったけれど――
自分がよそ者であることはよく解っていた。
でも。
司祭さまはいつも自分を可愛がってくれていた。
そのフォルド司祭さまが、自分を殺すなど信じられない。
この人たちの言うことは、真っ赤な嘘だと思いたかった。
なのに、深い藍色の瞳に見つめられると、彼の言うことが本当のような気がしてしまう。
アンリと聞き慣れぬ名を呼ばれるたびに、なぜか心の奥がうずいた。
「出発すれば、夜通し歩くことになる」
視線を落としたサフィルに、柔らかくシューガが語り掛ける。
「眠らなくていい。ベッドに横になって体を休めておいてくれ。いいね、サフィル」
そう呼ぶことに決めたように、彼は明瞭な発音でサフィルと呼んだ。
サフィルは何も答えずに黙ってベッドに戻り、布団をめくって中に潜り込んだ。全てから目を逸らすように硬く目を閉じて、中で丸くなる。
いつも痛みに耐える時にそうしたように。
「おやすみ、サフィル」
優しい声が慣れた名を呼んだ。
そう呼べと自分が言ったから、彼は従ってくれたのだ。
なのに。
アンリの名がもう彼の口から出ないことが、なぜか無性に寂しかった。
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