第二話:夜の旅路

1/1
655人が本棚に入れています
本棚に追加
/14ページ

第二話:夜の旅路

「起きてくれ、サフィル」  肩を揺すられて夢から無理やり引きずり出される。 「日が落ちた。ここを出よう」  腹立ちまぎれに目を閉じたまま、どうやら自分は眠り込んでしまったらしい。  見ていたはずの夢は、まぶたを開いた途端霧散してしまう。  奇妙な喪失感を覚えながら開いた目に、茶色い短い髪をした男の顔が映る。  シューガと、あの蝙蝠が呼んでいた。  目覚めたサフィルに彼は笑いかけた。 「どうだ、体調は。どこか辛いところはないか」  二言目には、彼が体の具合を尋ねてくることにサフィルは気付いていた。 「別に大丈夫だ。いつもと変わらない」  つっけんどんに答えてから、サフィルは身を起こした。  日が暮れたせいか、部屋はひどく薄暗い。  けれど。  なぜだろう。  やけにはっきりと辺りが見える。   「なら良かった」  口元をほころばせて彼が言う。 「すぐに闇がやってくる。出かけようか」    自分に選択肢はないようだ。  無言でサフィルは布団を跳ねのけ、ベッドから床へ足を滑らせた。  そこには靴が一足、きちんと整えておいてある。  見慣れないものだが、履けと言わんばかりのしつらえに黙ってサフィルは足を入れた。  立ち上がって寝ていた布団を整える。教会暮らしが長いためか、全てを整理整頓する癖がついている。  こんな時でもその習慣が抜けない。  それにしても、ここはどこなのだろう。  視線で探りながら、サフィルは作業を終えた。  シューガは腕を組んだまま、黙ってサフィルのすることを見守っている。  サフィルが布団から手を離すと 「用意が出来たら、出ようか」  と一言告げて、彼は腕をほどくとそのまま歩き出した。  小さく吐息をついてから、サフィルは仕方なく背に従う。  二つ隣の国まで行くというのに、シューガはろくに旅の用意をしていない。  流れの民暮らしの長いサフィルは、こんな装備でどこまで行けるのかといぶかしがった。  水を蓄える水筒も、食事を作る鍋のたぐいもナイフも何も持っていない。  食糧すらシューガは携えていなかった。  ほぼ手ぶらの状態で、数時間前にサフィルが飛び出した扉を開き、外へと誘う。  本気で旅をする気があるのか? と心の内に罵りながらサフィルは扉を潜るシューガに続いた。  季節は初夏だった。  一歩、家を出てサフィルは驚く。  残照が消えたはずの辺りの様子が、はっきりと映る。  薄闇のはずなのに、どうしてこんなにも目が利くのだろう。  空気はとても甘やかだった。  どこかで咲いている花の香が、風に乗って漂ってくる。  普段なら気付かないほどの淡い香りが、やけにはっきりと嗅ぎ取れる。 「どうした、サフィル」  戸口に佇んだまま、呆然と立ちすくむサフィルに、シューガが声をかける。 「足元が見えないか?」  いや、そうじゃない。  逆に――闇なのに見えすぎる。  と言いかけて言葉を飲む。 「いや、大丈夫だ」  動揺を悟られないように、口早にサフィルは呟いた。 「そうか。なら良いが……。もし不安なら、手を繋ぐか?」  さらっと言ってから、シューガが自分に右手を差し伸べる。  この手を握って歩けということだろうか? 「必要ない」  子どものような扱いにかっと頬を赤らめながら、サフィルはにべもなく断った。 「一人で歩ける」 「そうか、なら良かった。夜が明ける前に距離を稼ぎたい。すまないが、サフィル。私についてきてくれ」  そう言うと、彼は背を向けて再び歩き出した。  自分が寝かされていた家があったのは、森の中だった。  木々が覆いかぶさるように繁っているので、一層暗いはずだ。  なのに。  どうしてだろう――  先を行くシューガの白い服がはっきりと目で追える。  それだけではない。  灯り一つ側にないというのに、闇に立つ樹木の姿がみてとれる。  どうしたんだ。  何が起こっているんだ。  どうして暗い中で、こんなにはっきりと物が見えるんだ。  心に呟きながらも、シューガの背を追う。  ふと、彼と話していた大きな蝙蝠がいないことにサフィルは気付いた。  たしか名はヴァドーだった。  蝙蝠は音もなく飛ぶというが、その気配すらない。  どこかに行っているのだろうか。  自分の変化のことも、尊大な口の利き方をする蝙蝠がいないことも、先を行くシューガに問うことも出来ず、悶々としながらサフィルは歩を進めた。    しばらく進むと森が切れた。  木々の間を抜けたとたん、ぱっと視界が開ける。  サフィルは思わず息を飲んだ。  初夏の空には、星が輝いていた。  今までも星を眺めたことはあったが、細やかな一つ一つの星までが、手に取るように見えたことなど無かった。  あまりの見事さに呼吸をするのすら忘れ果てる。  小さな砂粒のような星々が、空を壮大に彩っている。  渦を巻く星々の形がはっきりと見える。  星の光で平原がぼんやりと照らされているほどだ。  夜は――  こんなにも美しかっただろうか。  驚き立ち止まるサフィルに、 「どうした?」  と先を進みかけていたシューガが、歩を緩めて問いかける。  空に見惚れていることに気付いたのだろう。 「ああ、その眼で星を見るのは初めてなのだね、サフィル」  と穏やかに呟いた。  その眼、という言い方に、なぜか引っかかる。 「どうして」  サフィルはこらえかねて尋ねていた。 「夜なのにどうして物が見えるんだ。昨日までは闇は、闇だった。なのに、今は闇でも辺りのようすがわかる」  ぎりっと唇を噛んでしまう。  それに、太陽にも当たれなくなった。 「俺に何が起こっているんだ。教えてくれ、シューガ」  問いかけに、シューガは眉を寄せた。  闇の中だというのに、その困った表情がはっきりと読み取れる。   「大丈夫だよ、サフィル。何も心配することはない。君が」  口元に微かに笑みを浮かべてシューガは続けた。 「君本来の姿に戻っているだけだ。星を眺めていたんだね。とても綺麗だろう? これが、君が本当に見るべき世界だったのだよ、サフィル」  答えにもならないことを、彼は静かにサフィルに告げた。 「俺が本来見るべき世界?」  問い返した言葉に、シューガがうなずく。 「そうだよ。今まで君は司祭から、闇は恐ろしいものだと教えられてきたのだろう。でも本当は、とても優しい豊かなものが闇の中にはあるのだよ。人が夜に眠るのは、闇が安らぎを与えるからだ。昼間は日の光に負けて輝きを失う星々も、こんなにも美しくきらめている」  ふふっと彼は笑った。 「夜の世界は、とても深くて美しいよ、サフィル。恐れずに受け入れてごらん」  整いすぎるほど美しい、シューガの顔を見つめる。 「俺は、自分に何が起こっているかを知りたいだけだ。夜がどうこうを訊いているわけじゃない。ごまかすな」  冷たく言い放った言葉に、シューガは笑みを消した。 「それに」  サフィルは畳みかけるように言葉を続けた。 「二つ隣の国のカテポーまで行くというのに、ほとんど旅の支度をしていない。これはどういうことだ。俺は昔、旅をしながら暮らしていた。生きていくために、どれだけの道具が必要か解っているつもりだ。  なのにほとんど手ぶらじゃないか。旅をするということ自体が、疑わしく思えて仕方がない」  決めつけるように言う言葉を、じっとシューガが聞いている。 「本当に旅をするつもりなのか? 俺を騙しているんじゃないのか」  疑惑と不信感が、言葉となって溢れた。  ぶつけた想いを、黙ってシューガが受け止めている。  彼の瞳は静かにサフィルを映していた。その眼に、ふっと悲しみがよぎった。 「そうか、私のことが怪しく感じられているのだね。でも、お願いだ、サフィル。私を信じてくれないか」    ずきんと頭が痛んだ。  どこかでこの言葉を聞いた。  深く身を抱き締められながら――  目の前に、細い雨のように柔らかく揺れていた銀色がよぎる。 「それに、君の言う旅の用意とは、ほとんどが食事のためのものだろう。それなら大丈夫だ。腹が減ったのなら言ってくれ。私が何とかする。旅の用意がなくても私たちは進むことが出来る。夜は――私たちの味方だ」  夜は味方。  それではまるで、魔物のいう言葉のようだ。  光を尊ぶ教えに生きてきたサフィルには、戸惑いしか生まない。  ふざけるな、と叩きつけたかった。  でも、彼の瞳に浮かぶ悲しみが、それ以上のきつい言葉を飲み込ませた。 「――解った。腹が減ったら言う」  それだけを、何とか呟く。  了承を感じ取ったのだろう、シューガの顔に再び笑顔が宿った。 「なら、進もうか、サフィル。ヴァドーが先に行って、私たちが昼間過ごす場所を探してくれている。見つけ次第私たちに知らせてくれる。それまでこの道を真っ直ぐに行こう」  と、星明りに照らされた土の道を示した。  逆らうこともせずに、サフィルはこくんとうなずく。  頭の中で、何かがざわめく。 「行こうか」  そう言ってシューガが歩き出した。  その背を見つめて歩きながら、ふと。  同じものを以前にも見たことがあるような、既視感が襲う。  その時には――  温かな手が、ぎゅっと自分の手を握ってくれていた。  ふっと意識をさらうような感覚に、サフィルは立ち止まって首を振った。  この男は初めて会ったはずなのに。  どうしてか良く知っているような気がする。  そう思った途端、再び頭が痛みを発した。  思い出すなと、声高に命じられているような感じがする。  小さく頭を振りながら、土の道をシューガに少し遅れて歩む。  しばらく歩き続けて、サフィルは奇妙なことに気付いた。    足が少しも疲れない。  かなりの距離を歩いているはずなのに、まったく疲労が感じられなかった。  地平の果てまでも、歩き続けられるような活力が内側にある。  体は弱い方ではなかったが、こんなにも頑強なはずがない。  戸惑う理由がもう一つあった。  少しも空腹が襲ってこない。  昼間に眠り込んでから今まで、よく考えるとサフィルは何一つ口にしていなかった。  なのに、全く腹が減ったと思わない。  喉の渇きすら感じなかった。  どういうことだ。  なぜ、俺は平気なんだ。  戸惑い続けるサフィルの耳に、微かな空気の流れが響いた。  はっと目を上げると、闇の中に静かに翼を動かす大きな蝙蝠の姿が映る。  小刻みに翼をはためかせていた蝙蝠は、上空から自分達を見つけたのか、真っ直ぐに降りてきた。 「ご苦労だった、ヴァドー」  いち早く見つけ、シューガが足を止めて蝙蝠に声をかける。 「見つかったか?」 「ああ。無人の小屋があった。狩猟小屋かな。ちょっと獣の匂いがするが使えそうだ」 「良いものを見つけてくれた。夜明けまでにたどり着けそうな距離にあるのかな」 「大丈夫だ。夜通し歩けば行けるだろう」  夜通し歩く。  とさらりと蝙蝠は告げた。  どうやら太陽が昇っている間に休む場所を、この蝙蝠は見つけてきてくれたらしい。 「案内する。ついてきてくれ」  そういうと、蝙蝠はふわりと地面に舞い降りてから、不意にその姿を変じた。  巻いた翼がゆっくり解けるようにして、黒い霧に変わる。  その霧がだんだん大きくなって伸びあがっていった。  次第にその姿が人型へと移ろっていく。  驚きに声を飲むサフィルの前で、さっきまで蝙蝠だったものは、黒髪で長身の男の姿へと変化(へんげ)していった。
/14ページ

最初のコメントを投稿しよう!