第三話:抗いがたい衝動

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第三話:抗いがたい衝動

   初夏の気候に合わせたのか、涼しげな服をまとい、さっきまで蝙蝠だったものが人の姿へと形を変える。  驚愕を通り越して、サフィルは妙に冷静になってしまった。  その中で思う。  これは、魔物だ。  蝙蝠が人に姿を変えるなど、魔物以外あり得ない。 「どうした。そんなに驚いた顔をして」  ふふっとヴァドーが笑う。 「これまでも、何度も見てきただろう」  闇の中でも全てを見ることが出来る眼が、笑いを消したヴァドーの姿を映す。 「まだ俺のことを思い出せないのか、アンリ」  自分の知らない自分を彼らは知っている。  自分の知らないものを、自分の知らない自分は見てきた。  彼らの仲間であったらしいアンリの存在が、奇妙な苛立ちを巻き起こした。 「お、俺は、アンリじゃない」  そこに縋るように、サフィルは声を絞っていた。 「俺は、サフィルだ!」  叫んでとっさにそこから逃げようとした腕を、しっかりとつかむ手があった。 「そうだ、君はサフィルだ」  シューガだった。 「ヴァドーの言うことは気にするな。君はサフィルだ。それでいい」  なだめるような言葉に、燃え立つような反抗心が静まっていく。 「ヴァドー」  鋭い視線と共に、シューガが言葉を放つ。 「止めろと私は言ったはずだ」 「はいはい」  向けられた怒りをいなすように、ヴァドーは頭の上で手を組むと微笑んだ。 「俺はどっちでもいいんだが、ただ、少々やり方が気に入らないだけだよ、シューガ」 「サフィルには何の関係もないことだ。彼に八つ当たりをするな」 「解ったよ、シューガ」  困ったようにヴァドーが笑う。 「――アンリを奪われて一番苦しんでいるのはあんただ。それが我慢しているんだからな。従うよ」  ヴァドーの言葉に、痛みを得たようにシューガが顔を歪めた。  暗闇の中でも、はっきりと見て取れる目がその苦痛を読み取らせる。  ちくんと、胸の奥がなぜか痛みを発する。  アンリを奪われて、という言葉が脳裏にこだました。  目覚めた時、自分をアンリと呼んでいた時の、優しく甘やかなシューガの瞳を思い出す。  もしかしたら、あれはかつて自分に向けられていたものだったのだろうか。  私を忘れたのかと言った時の、辛く切なげな眼差し。  自分が知らない自分は……アンリと呼ばれている自分は、シューガとどういう関係だったのだろう。  考えようとすると、再び頭が痛んだ。 「夜明けまでに見つけた小屋までたどり着きたい。案内を頼む、ヴァドー」 「よしきた。俺についてきてくれ」  相変わらず軽い口調で言うと、人の形となった蝙蝠がさくさくと道を進んでいく。 「行こうか、サフィル」  思わぬ優しい声で呟くと、自分の腕を取ったままシューガが歩き始めた。  離してくれ。一人でも歩ける。  と言おうとして、はっとサフィルは言葉を飲んだ。  なぜだろう。  こうやって腕を取られて歩いたことがあるような気がする。  掴む手の強さを、身体が憶えていた。 ――ここは危険だ。私と一緒に来てくれ。  唐突に言葉が頭の中に響く。  腕を取って歩きながら、誰かがそう自分に切羽詰まった声で言った。  少し前を歩くシューガの背を見る。  この背が、あの時も前にあったような気がする。  どくんと中で音がする。  抗いを止めて、腕を取られたまま、黙ってサフィルは歩き続けた。  あの蝙蝠が言っていた、夜通し歩けば、と言う言葉は嘘ではなかった。  ヴァドーが「ここだ」という小屋にたどり着くまでに、ただ黙々と長時間歩き続けてきた。  体力がもったのが不思議なぐらいだ。  狩猟小屋、と言葉にあったように、その小屋は歩き詰めた末、たどり着いた山の中腹にあった。  驚いたことに、明日はこの山を越えていくらしい。 「日が沈むまでの仮の宿だが、中々だろう」  見つけたことを誇るように、ヴァドーが言う。 「普段は人が居ないから、窓にも板が打ち付けてある。中に入って確認したがほとんど日が射し込まない。サフィルでも安心して過ごせるだろう」  シューガの注意を受けてから、彼はきちんと自分のことをサフィルと呼ぶようになった。  要らぬ波風を立てまいとしているようだ。 「手間をかけたな。ありがとうヴァドー」  心からの礼をシューガが述べる。 「また明日になれば、新しい場所を探さなくてはな」  少し照れたようにヴァドーがいう。  狩猟小屋に鍵はかかっていないようだった。あるいは、ヴァドーが壊したのかもしれないが、彼らは頓着していないようだ。 「日が昇る前にたどり着けて何よりだ」  明るい声でヴァドーが言う。 「さあ、さっさと入ってくれ。もう夜明けまでそう時間がない」  開け放った扉の内側に、シューガにまだ腕を掴まれたままサフィルは入った。  瞬間。  充満する匂いに、くらりと目眩がした。  どくっと内側がざわめく。  血の匂いだ。  どこか深いところで呟きが滴り落ちる。  と、同時に。  突然、飢餓感が止まらなくなってしまった。  血が飲みたい。  そのことしか考えられない。  足に力が入らずに身が揺れる。  とっさに力強い手が体を抱き止めていた。  はあはあと、荒い息が口から漏れた。  血が飲みたい。  血が飲みたい。  言葉が口からあふれ出そうになる。  サフィルは歯を食い縛った。  血が飲みたいなど魔物のすることだ。  俺は魔物ではない。  こんなことを、思うはずがない。  必死に自分自身に言い聞かせる。 「――サフィル」  耳元で涼やかな声が響いた。 「血が飲みたいんだね」  はっと驚きと共にシューガを見る。  彼は苦しそうな表情になっていた。 「まだ体に馴染んでいないのに、強行軍だった。それに、この小屋に籠る血の匂いが誘い水になったのだろう」  飢餓感のあまり、汗の滲むサフィルの額をそっと撫でる。 「大丈夫だよ、サフィル。少し血を飲めば落ち着く」  そして切なげに微笑むと 「私の血で飢えを充たすといい。さあ」  と、真っ白な首筋をサフィルの前にさらしてきた。  どくん、どくんと内側が脈打つ。  鼻が様々な匂いの中から、目の前の人から漂い出す芳醇な香りを嗅ぎあてる。  その血がどれほど甘く美味しいかを、自分はすでに知っていた。  激しくサフィルは首を振った。 「――がう」  懸命に自分自身に抗う。 「ちがう」  次第に激しく身を震わせるように首を振る。 「俺は、魔物じゃない! 血など欲しくない!」  動いたことでより一層飢餓感があふれて、身を焼く。  血が飲みたい。  苦しい声が溢れる。  でも自分は魔物ではない。  血など欲しくない。  内から込み上げる衝動を懸命に押し殺そうとするうちに、意識が朦朧としてくる。 ――そうだ。血を飲んではならない。今なら生を止めることも出来る。異形のまま生きるなど、許されないことだ。  冷たい声が内側から響く。 ――自らの生を止めろ。そうすれば、鍵は彼らの手に渡らない。  誰かが強く命じている。  その声に従わなくてはならないという想いと、もう一つ別の何かが自分の中で争っていた。  助けて。  苦しい。  苦しいよ、母さん。 「大丈夫だ、サフィル。すぐに楽にしてやる」  呟きに目を開くと、シューガの優しい微笑みが目に映った。 「私の血を飲むんだ」  言うと同時に、彼はいつの間にか手にしていた短刀を、自分自身の首筋に当てた。  そしてためらいもなくすっと横に引く。  あっという間もなく紅い筋が現れ、そこから芳醇な香りの血があふれ出してきた。  無言でシューガは溢れた赤い液体をサフィルに与えるように、首筋ごと口元に押し付ける。  かぐわしい香りに、抗うすべなどなかった。    唇に触れたものをなめとる途端、飢餓感に突き動かされて、自分から口に入ってくる血を夢中で吸い続ける。    信じられないほど甘く慈しみに満ちた味だった。  飢えを満たそうとして、本能的にサフィルはこくこくと飲み続ける。 「奴に負けるな、アンリ」  耳元で声が響く。 「頼む。私を思い出してくれ」  その切なげな響きが胸を打つ。  シューガ。  彼の名をサフィルは胸の内に呼んでいた。  シューガ。  何かを必死に手繰り寄せるように。  もう少しで掴めそうなのに、おぼろになってもどかしい。  一気に身の中に回った血に満たされて、サフィルはゆっくりと意識が遠くなっていくのを感じていた。  血を与えながら、シューガがずっと自分の身を大切に抱き締めてくれていることだけが、最後にサフィルの感じたことだった。      
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