第四話:逃走の行き着くところ

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第四話:逃走の行き着くところ

 目を開いた時、すぐに自分がどこにいるのかサフィルには解らなかった。  剥き出しの木を組んだだけの天井。  しばらくぼうっと見つめてから、はっと思い出す。  ここは、長時間歩いた末にたどり着いた狩猟小屋だった。  がばりと身を起こして辺りの様子をうかがう。  自分が寝ていたのは背の低いソファーの上だった。  通常なら闇しか映らないはずなのに、今のサフィルの眼はくっきりと小屋の輪郭を読み取った。  さほど広くない一室だけの小屋だった。  獣を獲っていい時期は、秋や冬の一時期と決められている。  それ以外の時は小屋を締めているのだろう。  人気のない室内はしんと静かだった。  きょろきょろと見回しても、シューガとヴァドーの姿は部屋の中にない。  彼らは何らかの理由で留守にしているようだ。  それが解った途端、サフィルは身にかけられていた毛布を剥ぎ取るように除けた。  逃げる絶好の機会だ。  どきどきと胸を躍らせながら、床に置かれていた靴に足を入れ、慌ただしく入り口に向かう。  そのまま開こうとして、一瞬動きを止める。  この前、太陽に当たって肌が焼けたように痛くなったのを思い出したのだ。  眉を寄せながら、サフィルは慎重に、木を組んで作られた扉を開いた。  外は闇だった。  ほっと安堵の息が漏れる。  まだ夜明けが来ていないらしい。  大丈夫だ。今なら逃げられる。  そう判断すると、そっと戸口から滑るように身を押し出した。  彼らはこの山を越えると言っていた。  それなら、逆の方向に逃げればいい。  麓へ――  誰か、人が居る場所へ。  サフィルはただひたすら、逃げなくてはという衝動に突き動かされるままに、闇に沈む森の中を駆けた。  眼は、一層鮮やかに風景を拾う。  夜のはずなのに、木々の木立が鮮やかに見える。足元に気を付けながら、斜面を下っていく。  そうしながら、目覚める前に感じていた飢餓感を、必死に振り払う。  血が飲みたいなど、嘘だ。  俺は魔物じゃない。あれは、俺じゃない。  血を飲みたくないと否定する自分に向けられていた、悲しげなシューガの眼差しが脳裏をよぎる。  魔物ではないという言葉に、彼は深く傷ついているようだった。  飲みたくなかったはずなのに、押し付けられた首から溢れた液体を、自分は慈雨のように身に受けていた。芳醇な香りに酔いしれていた。  慌てて首を振って、その感覚を払う。  違う。  俺は魔物じゃない。  血を飲みたいなど、間違っている。  彼らの側にいると、それが次第に当たり前になってしまいそうで――  サフィルは恐かった。  必死に抵抗するサフィルに自分の血を与えるために、シューガはためらいもなく自らの首を傷つけた。  その瞬間を思い出した途端、胸がぎゅっと痛くなった。  シューガが傷つくのが嫌だった。  自分が側にいれば、彼を傷つけてしまう。  体も、心も。  アンリでない自分は――彼を悲しませる。  ヴァドーの言葉が、未だに棘のようにサフィルの心に刺さっていた。  アンリを奪われて一番苦しんでいるのはあんただ。  それが我慢しているんだからな。従うよ。  彼は――辛いのだ。自分が、アンリではないから。  アンリの記憶を失ったサフィルは、シューガに喪失感を味わわせるだけなのだ。  側にいない方が良い。  俺は、シューガを傷つけてしまう。  ぎゅっと手を握りしめて、サフィルは山を下った。  誰かが踏み固めた道はわざと避けた。落ち葉の降り積む斜面を滑るようにして下る。  道を行けば、シューガたちに気付かれてしまうかもしれない。  必死にサフィルは走り続けた。  夜明けまでにこの山を下りて――そして、日が照り始めたら自分はどうなるのだろう。  ぼんやりと考える。  でも、自分の内側の誰かが、異形のままでいるのなら、生を止めろと命じていたような気がする。  なら、いいのだろうか。  シューガにあんなに悲しい顔をさせるのなら、自分など――  朝日に焼けてしまった方がいいのかもしれない。 ――そうだ。命を止めろ。  ずきんと響く痛みと共に、内側に声が響いた。 ――魔族の手に鍵を渡してはならない。  頭の痛みに、サフィルは思わず足を止めた。 「鍵って、何だ」  小さく内側に向けて呟く。 「俺は何も持っていない」  その問いに答える声はなかった。  一方的に命じる言葉。だが、それに従うべきだとどこかで自分は思っていた。 ――このまま山を下れ。迎えが来ている。  響く声に抗えずに、再びサフィルは歩き始めていた。    迎え、という言葉の意味がすぐにサフィルには解った。  山の下から一つの灯りがゆらゆらと上ってくる。  シューガたちではない。その灯りの元へと下ったサフィルは、灯を掲げる人が、見知った人物であることに気付いて声を放っていた。 「司祭さま!」  フォルド司祭だった。  アンリカ村で自分の親代わりになって育ててくれた人だ。 「サフィル?」  フォルド司祭は、夜目が利かないようでおぼつかない声で問いかける。 「サフィルなのか」 「はい、司祭さま」  声を放った後、サフィルは足を速めて山を駆けた。  行方をくらませた自分を迎えに来てくれたのだ。  混乱を極める中で、自分の支えに出逢ったようで、サフィルはとても嬉しかった。 「今、そちらに向かいます」  言いながら闇の中でもはっきりものが見える眼で、辺りを探りながら走る。  ようやくたどり着いた司祭の元で、 「ああ、サフィル。ようやく出会えた」  という優しい声を聞いて、安堵のあまりサフィルは泣きそうになってしまった。 「探したよ」 「申し訳ありません、司祭さま」    灯りの中に、いつもと変わらない優しい笑顔が浮かぶ。  闇を見通す眼にはきつい光だったが、細めた目に懐かしい人の姿を映す。 「一人なのかな」  フォルド司祭は周りを見渡してから問いかけた。 「はい。一人です」 「そうか」  にこっと、司祭が微笑む。 「なら好都合だな」  その呟きと共に、突然胸に焼けつくような痛みが走った。  数歩よろめいたサフィルは、木肌に身を預けて驚愕に目を見開く。  銀色の薄刃のナイフが自分の胸に深々と刺さっていた。  じわりと血が滲んでくる。  フォルド司祭さまが自分を刺した。  信じられない思いが身を震わせる。 「あの吸血鬼どもは手強い。一人でここに来てくれたことは大変好都合だ。お前は良い子だな、サフィル」  どうして――  驚きに目を見開くサフィルに、穏やかな笑みを司祭が与える。 「もう、異形に変じているのだな。銀刃のナイフを受けても立っていられるとは。この闇を平気で歩いてきた時点で気付いていたが――失望したよ」 「どうして……」  言うと、ごふっと血が口から溢れてくる。 「どうして? せっかく私たちがお前の力を封じてきたというのに、やはり半分でも魔物は魔物だな。同族の誘いに乗って私たちの元から逃げるとは――仕留め損ねた過ちを、償うためにこんなところまで私は来たというのに。しかし、サフィル。自分から近づいてきてくれて、手間が省けた」  優しい笑みが深まる。  けれど、気付く。瞳の奥には、サフィルに対する愛情など微塵もなかった。  あるのは深い侮蔑の念だったった。  いつも彼は、この眼で自分を見ていたのかもしれない。 「可愛いサフィル。魔物に変じたお前を、この手で始末してあげよう。それが私の慈悲だよ。安心しなさい。母親の横に墓石だけは立ててげるからね」  言われていたはずだ。  アンリカ村に戻れば、フォルド司祭さまが自分を殺すと。  シューガもヴァドーも、そう警告してくれていた。  信じていた人は自分を殺そうとし、魔物の彼らは自分を生かそうとしてくれていた。  シューガは、身を傷つけてまで自分に血を与えてくれたのに。  どうして。  信じられなかったのだろう。  シューガ。  内側にシューガの名を呟いて、サフィルはあの狩猟小屋に戻ろうと一歩を踏み出した。  が、力が入らずに体が崩れて、落ち葉の上に身を投げ出していた。 「その銀のナイフには、魔物封じが施してある。身が痺れて動けないだろう」  優しい声で司祭が呟く。  かさりと音がして、一歩を近づく。 「ここでは日が射さないからね。もう少し山の下に運んであげよう。そのまま夜明けを迎えれば、聖なる日の光が、お前の身をきれいに焼いてくれる」  このまま動けない体で、光の元に放置される。  朝。  太陽が昇って、一日が始まることを感謝する。  当たり前だったことが、今の自分には命を奪うことになるのだ。 「さすがに私も、可愛がっていたサフィルの最期を見るのは心苦しいからね。聖なる光に異形の者の裁きを委ねよう」  かさりと司祭がさらに歩を進める。 「あれほど愛情を注いであげたのに、どうして私を裏切ったのだ、サフィル。心底落胆したよ」  倒れるサフィルの側に、ゆっくとフォルド司祭が膝をつく。  彼は今も優しく微笑んでいた。 「これは私の最後の慈悲だよ、サフィル。お前を異形の身から救ってあげよう」  自分に向けて伸ばされる手を、ぼんやりとサフィルは眺めていた。  ああ、そうか。  フォルド司祭を裏切って、シューガがアンリと呼ぶ自分は、アンリカ村を逃げ出したのだ。不思議と、それに対する怒りは湧き上がってこなかった。  恩人である司祭の落胆を招いたとしても――  今の自分もきっと、この優しいけれど目の笑っていない司祭さまとシューガなら、きっとシューガの手を取る。  微笑みの底に、侮蔑を潜ませて可愛いサフィルと呼ぶ人よりも。  星を見上げて美しいと言った人の言葉を信じたかった。  シューガ。  心に名を呼ぶ。  朝日に身を焼かれるのなら、最後に彼に逢いたかった。  会って謝りたかった。  あなたから、大切なアンリを奪って、すまなかったと。      フォルド司祭の手がサフィルに触れようとした瞬間。  凄まじい風が木々を鳴らして吹き抜けた。  あっ、と一言叫んで、フォルド司祭がよろめく。  大地に散り敷いていた枯れ葉が巻きあがり、視界が閉ざされた時 「言っておいたはずだ」  と静けさの中に深い怒りを秘めた声が響いた。 「もうアンリに手を出すなと。私の忠告を無視するとは愚かなことだ」  ゆっくりと木の葉が鎮まった時、そこには白銀に輝く髪を風になびかせる一人の青年が佇んでいた。    
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