どうして私は、ここに座っている?

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どうして私は、ここに座っている?

   圧倒的な、『王子』力――  そのせいとしか、言いようがなかった。  まだ照明が落とされる前の、すり鉢状になった座席の真ん中あたり。  一番画面が見やすいよね、と山田涼太郎が指定した10Hと10Gの席の右側に座って、木乃花は、ひざの上にポップコーンの大きな容器を置き、今は何も映っていない灰白色のスクリーンを見つめていた。  私はどうして、見たくもないホラー映画のために、映画館にいるのだろう。  きっと隣に、山田涼太郎がいるせいだ。  彼は事前に買ったパンフレットを、嬉しそうに見ている。  映画が始まる前にパンフレットを買う人を、木乃花は初めて見た。  目の前に広がるスクリーンは、大きかった。  映画館だ。  テレビ画面とは全く違う。  視界全部が映画の世界になると、予告されているも同然の大きさだ。  音響設備が半端ない、この映画館。  恐らく、ホラー映画独特の、人を不安にさせる音が周囲から襲いかかってくるのだろう。  しかも暗闇の中、大迫力の画面を(王子言うところの一番良い場所で)見ることになる。  もう一度言う。  木乃花は、恐いのが大の苦手だった。  小学校の時、こともあろうに、肝試し大会の幽霊役に抜擢されてしまったことがあった。学校で、一日限りの行事として、小学三年の生徒が夜中の校舎を探検するのだ。  木乃花は幽霊役として、皆をトイレで待ち受けることになった。  深夜の人気のない学校の二階のトイレで、だった。  皆を驚かす前に、木乃花は恐怖に耐えかね、トイレで一人気を失ってしまったほどの恐がりだった。   「楽しみだね」  王子がパンフレットから目を上げて、首をひねりながら、木乃花を見る。 「久遠さんも、前作を観たの?」  も。  観たの?  脳内で王子の言葉が補完される。 (僕は前作を観たけれど)久遠さんも、前作を(映画館で)観たの? (面白かったよね、前作。特に――)  完全に同志と思いこまれている眼差しだった。語りたそうに口元がうずうずしている。  木乃花は、ブンブンと首を振った。 「あの、実は――」  友人に、無理やり押し付けられたチケットなんです。  ホラー映画は、ちっとも趣味ではありません。むしろ、苦手です。  と、真相を吐露しようとした瞬間、上演を告げるブザーが高らかに鳴り響いた。  それだけで、木乃花はびくっと飛び上がってしまった。  きらりと、山田涼太郎王子の目が、期待に弾んだように光り、優しく細められた。 「始まるね」    王子の視線が木乃花から離れ、スクリーンへと向かう。  さっきまで周囲を温かく照らしていた照明が、ゆっくりと明度を下げる。  夜が迫ると心細くなるのは、原始の記憶のせいだろうか。  闇と共に恐怖はやってくる。  木乃花は不安におののいた。  映画館独特の上下左右から揺さぶりをかけるような音で、上演中の注意事項を告げる画面が流れ出した。 『携帯電話の電源は、オフに!』  可愛いパンダが、片目をつぶって言う。  木乃花は、逃げ出したくなった。  けれど――  逃げ出せないのは、山田涼太郎がおごってくれた、特大のポップコーンが、まるで重石の刑のように、膝の上に乗っていたからだった。  王子が売店で購入していたキャラメルポップコーンは、木乃花のためのものだった。  満面の笑みで差し出してくれた山田涼太郎王子の心遣いを、いりません、と無下に断れなかったのだ。  こういう思いやりに満ちた行動が、『王子』と呼ばれる所以(ゆえん)なのだろう。  後にホラー映画が控えさえしていなければ、木乃花ももっと真摯に礼が言えたはずだった。  ひとしきり、盗撮禁止! だの、おしゃべりは上映中はダメ! だの、良識ある人なら解かるよね、といわんばかりの注意が告げられる。  そして、封切り前の映画の予告が、どおぉぉぉんという迫力の音と共に、流れ出す。  まずい。  始まってしまう。  『死霊の踊りだす夜』が――  最終日のためか、ほとんど空席のない映画館の中で、木乃花は一人で額から嫌な汗を出していた。  映画予告がどんどん進み、カウントダウンの音が聞こえるようだった。  やばい。  ホラー映画を見なくてはならない。どうしよう、どうしよう。  不意に、一層映画館の中が、暗くなった。  じーっという音と共に、スクリーンの左右のカーテンが開き、さらに画面が大きくなる。  ああ。  本編が始まってしまう。  動揺する木乃花を無視して、唐突に、映画が始まった。  出だしのシーンから、木乃花は、悲鳴を上げた。  大スクリーンに、いきなり死霊が襲いかかって来たのだ。  そして、続く、画面いっぱいの赤!  死霊に襲われた人々が流すおびただしい血の赤が、これでもかっと! とスクリーンに踊る。  これほど赤い色を恐ろしいと思ったことなど、木乃花にはなかった。  血の色、恐怖の色、死に続く色――  全くなんの心の準備もない中、放りこまれたホラー映画の世界。    横に、ゼミのみんなの憧れの君、山田涼太郎王子がいることなど、念頭から跳んで抜けて、木乃花は、映画監督が意図するままに、ただひたすらに叫び続けていた。 
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