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そこから始まる物語
「立てる?」
ほとんど手をつけていないキャラメルポップコーンを大事に抱えながら、さっと山田涼太郎は立ち上がり、木乃花に右手を差し出した。
「あ、大丈夫。ありがとう」
さすがに手を握ることははばかられる。木乃花は元気を装って足を床におろし、何とか身を起こした。
だが。
膝が笑っていて、まともに立てない。
支えるように、山田涼太郎の手が、木乃花の腕を取った。
「喉がカラカラだね。何か飲んでいこうか」
かすれた木乃花の声を気づかうように、彼が呟く。
「ありがたいです」
答えた木乃花に、くすくすと、彼が笑いを降らせてくる。
「久遠さんとホラー映画って、そぐわないと思っていたけど――何か事情があったんだろうね。あそこまで苦手なのに、わざわざ前売り券を買うはずがないから」
彼の疑念に答えるように、シアターを出て行きながら、木乃花は、ことの起こりを説明する。
ゆくりなくも、押しつけられたチケットだったということを。
「なら」
全てを聞き終えた後、彼は小さく呟いた。
「僕は感謝するべきなんだろうな、小泉さんに」
え。
木乃花は、思わず足を止めそうになった。
離れたことに気付いたのか、前を歩いていた山田涼太郎は立ち止まり、木乃花へ顔を向ける。
「お陰で、久遠さんが最初にホラー映画を見る場面に、僕は立ち会えた」
はにかんだ笑みを浮かべながら、彼は付け加える。
「もっとみんなが、ホラー映画が好きになって欲しいと常々思っているんだ。久遠さんがそうなってくれると、とても嬉しい。そのお手伝いが出来ればいいなと思っている」
「おすすめの、映画とか、あるの? 山田君」
少年のような笑顔が意表を突き過ぎて、思わず木乃花は問いかけていた。
「この前作も、良かったよ」
前を向き、彼は再び歩き出した。つられて歩を早めて彼の側に並ぶ。
「『死霊の動き出す夜』――もっと死霊がおどろおどろしい感じで描かれていて――」
そこから、山田涼太郎の口から、たくさんのホラー映画の題名があふれ出してきた。熱く語り続ける彼の姿に、木乃花は驚きが隠せなかった。
ゼミでの王子は、落ち着いた印象しかなかったのだ。
「リバイバル上映をしている映画館があるんだ」
木乃花の方を見ずに、彼は早口になって言う。
「もし、久遠さんが観たいなら、おすすめのものをチェックしておくよ――」
ちまたで「王子」ともてはやされている山田涼太郎が、ひどくたどたどしく言葉を紡ぐ。拒絶されるのを恐れるように、それでも言わずにはいられない情熱を秘めて。
あれほど恐怖に打ち震えていた心が、不思議と穏やかになっていく。
彼がこれほど好きな世界なら、悪くないかもしれない。
なぜかそう思ってしまった。
「ありがとう。山田君がご推奨のホラー映画なら、見てみたいと思うわ」
前をひたむきに見ていた山田涼太郎が、ようやく木乃花へと、顔を向けた。
その顔に、ほっとしたような柔らかな笑みが浮かんだ。
「なら。次は、ポップコーンは、もう少し小さめのにしておくのが安全だね」
ことんと、何かの音がした。
あれほど苦手なはずのホラー映画を、もう一度見たいと不覚にも木乃花は思ってしまった。
山田涼太郎の、隣で。
大迫力の、スクリーンに、半ば強制的に世界に放り込まれるようにして。
くりんとした薄い色の髪が顔を縁取る、まるで王子のような山田涼太郎。
清々しい外見とは裏腹な、ディープなホラー映画ファンだという事実が、木乃花の中で結び付いたとき――
静かに、木乃花は、恋に落ちていた。
突然押し付けられた、毒々しい赤のホラー映画の前売り券。
もしかしたらそれは――
二人を結びつける、運命の赤いチケットだったのかもしれない。
ふと。
そんな気がした。
(了)
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