王子、登場。

1/1
80人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ

王子、登場。

『死霊の踊りだす夜』――?  映画の名前などろくに見ていなかった木乃花は、赤を基調とした毒々しいイラストの中にはめ込まれた文字に、ああ、と思わず得心する。  そういう題名だった。  でも。  ちらっと見ただけで、映画の題名を一瞬にして見切った人物とは誰だろう?  ゆっくりと木乃花は声のした方向へ顔を向けた。  視神経が人物を認めた瞬間、反射的に目が大きく見開かれた。  山田涼太郎(やまだりょうたろう)。  同じゼミの人だ。  淡い茶色の髪の毛がくるくると柔らかく巻き、優しい眼もとも涼やかな、別名『王子』とも呼ばれている、かの有名な山田涼太郎――。  彼が口角を上げたまま、木乃花の手の中のチケットをのぞき込んでいる。 「それ前売り券だよね」  呟いてから王子の視線が、上がる。  彼と目が合った。  瞬間、にこっと、山田涼太郎が笑みを浮かべた。 「久遠さんも、この映画に行くの?」  も?  行くの?  「も」は、副助詞で事柄に何かを付与する意味を持つ。  「行くの?」は問いかけだ。  つまり。 (僕は行くけど)久遠さんも、この映画(を観)に行くの?  と。  自分は問いかけられているらしい。  なんてことだ。  山田涼太郎『王子』は、公開前にチケットを購入し、わざわざ映画館でホラー映画を観る人なのだ。  そして自分はどうやら――  同じ趣味の人間だと勝手に彼に思われてしまったようだ。    いきなり木乃花は動揺した。 「え、あ、こ、これは」  やっと、言葉が木乃花の口から転がり出た。ここまで、状況の展開のあまりの思いがけなさに思考が停止し、話すことすら出来なかったのだ。  王子が、にこっと再び甘い笑みを浮かべた。 「僕も持っているんだ、ほら」  山田王子がごそごそとカバンの中から財布を取り出し、開いて中から一枚の細長い紙を取り出した。  見間違えようがない。  今、木乃花が手にする毒々しい赤の『死霊の踊りだす夜』と同じチケットだった。  二人でおそろいの赤のチケットを見て、山田王子はにこにこ笑っている。 「久遠さんも、スペシャル版の前売り券を買ったんだね」  とても嬉しそうに山田涼太郎が笑みを深めて言う。 「当日券は緑ベースのイラストだけど、この前売り券は赤が印象的でとてもいいよね。前売り特典の死霊マスキングテープも秀逸で、買って良かったと思っている」  すごく嬉しそうに王子が呟く。 「久遠さんが持っていて少し驚いたけど」  いえ、違うんですこれは――  と木乃花が言い訳をしようとした時、急に山田涼太郎は、 「今日、最終日だったね」  と語調を変えて言ってから、ちらっと、自分の左手に目を遣った。  白い腕時計で時間を確かめると、 「今から行けば、13時45分の回に間に合うよ」  と満面の笑みで言う。  え?  どうして、あなたはそこまで、上演時間を把握していらっしゃるのですか?    と、敬語で問いかけたいほど、王子はやたらと映画の情報に詳しかった。 「ちょうどよかった。行こうか、久遠さん」  有無を言わさぬ口調で、山田涼太郎が笑顔のままで木乃花に告げる。  あの。  私には、選択権が無いのでしょうか?  それに。  ふと、木乃花は、周りからの視線に気付いた。  数人の女子が足を止め、遠巻きに木乃花と山田涼太郎のやり取りを見ている。  ま、まずい。  彼女らの視線が絶対零度で木乃花に突き刺さる。 「遅くなると途中から入らなくてはならないよ。午後の講義は休みだから、良かったね」  口調はジェントルマンなのに意外と強引だ。 「せっかくの前売り券がもったいないものね」  軽く木乃花の肩に手を乗せて、王子が動くようにうながす。    色々、まずいです!  木乃花は心の中で絶叫していた。  視線が、痛いです、王子!    どうして、私が、王子とホラー映画を見に行くことになったのか、木乃花は、状況が理解し切れないまま、迷子の子が手をひかれていくように、映画館がある方向――大学の西出口へと向かっていた。    
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!