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◆◇◆◇
梅雨時、雨降り、蝙蝠傘。
スニーカーも靴下も、グッショグショに濡らす、帰り道の水溜まり。
蝙蝠傘をやや傾げ左隣をチラと見遣れば、雨煙る景色の中、紫陽花を模した美しい傘が視界に入る。
深い赤紫のその陰で雨露を凌いでいるのは、黒髪の美少女。ボクの友人の朔夜ちゃんだ。
同性のボクでも思わず見惚れてしまう見目麗しい彼女は、この空模様に釣られたかのようにアンニュイな雰囲気を醸し出していた。
物憂げに伏せた瞼。それを飾る長い睫毛が、目元にくっきりと影を落とす。
繊細なレースを思い起こさせる影の中では、明るい紅茶色の瞳が雨に濡れた景色をなんとはなしに捉えていた。
ふと、何かの拍子に二、三度瞬きをした彼女が、視線を左斜め上に遣る。彼女に倣い、ボクもその視線の先を辿ってみた。
(まあ、確認するまでもないんだけどさ)
案の定、その一箇所だけ、ほんの僅かに……されど確かに、折れ曲がっている傘の骨があった。
ボクと彼女がその不格好な歪みを見つけたのは、ついさっき――下校しようと昇降口で傘を広げたその時だ。
傘としての機能は失していないけれど、美意識の高い彼女にしてみれば、その歪みは気に食わないに違いない。
その歪みを見つけた時も、それを見詰める今も変わらず、彼女の柳眉は無念に顰められ、その艷やかな紅い唇からは失望の吐息が漏れた。
――お気に入りの傘なのに。
そんな声が今にも聞こえてきそうだ。
(ああ、でも、美人さんって、やっぱり凄いよな)
ただでさえ雨降りで鬱陶しい中で、更に誰かがため息なんて吐こうものなら、辛気臭いことこの上ないだろうな。
だけど、仄暗い、メランコリックな表情を浮かべる彼女からは、えも言われぬ色香が匂い立つんだ。
ボクはその艷やかさを目の当たりにして、密やかに感嘆した。
美人はどんな表情をしても麗しく映る。
でも、どんなに麗しかろうと、落ち込んだ表情はこのコには似合わない。
だから、ボクは口を開く。このコの抱える憂さを少しでも晴らせたらいいな、と願いながら。
「ねえ、朔ちゃん。ボクがこれまでに一体、何本の傘を折ったか、キミ、当ててご覧よ」
唐突に出題されたクイズに、麗しいその人は一瞬キョトンとして、それからどこか呆れ顔をしてみせる。
「るうちゃん、そのクイズに答えなんてないの、私、知ってるわよ。とにかく沢山折りすぎて、自分でも覚えていないって前に言ってたじゃない」
「アハ、覚えてた?」
「しょうもなさすぎて、逆に忘れられないわよ。まったく。よく、そんなクイズを悪びれもなく出題できたものね」
正確な答えのないクイズ。それをきっちり指摘してきた友人に対して、ボクは大して意味もなく胸を張った。
「するさ! 何本、十何本、何十本の傘をボクが折ったと思うのさ」
「武勇伝みたく言わないの。そんな何十本に比べれば、この傘のほんの些細な歪みなんて、大した問題じゃない、とるうちゃんは言いたいのかしら」
「ご明察!」
「ああ、そう」
お馬鹿なことを言うボクを見て、朔夜ちゃんは能天気だと思うのだろう。
でもさ、ボクなりに彼女を励ましたいんだよ。
「傘、残念だよね。描かれた紫陽花がとっても綺麗なのに。傘として使えないことはないし、これくらいの歪みならまだ直せそうだけど、どうするの?」
骨は真っ二つに断たれたわけではなく、少し折れ曲がっただけ。ある程度の歪みなら自分で直せるかもしれない。それでも、余程器用な人でない限り、元通り綺麗に真っ直ぐってわけにもいかないだろうけれど。
ボクが修理可能か否かを思案している隣では、朔夜ちゃんが傘の骨に視線を注ぎ、折れた箇所を指先で撫ぜた。
「修理できないか試してみるわ。幸い、うちには器用な人が多いしね。それより――」
傘の骨を撫ぜていた白い指が、ふいにその指先をボクの差す蝙蝠傘に向ける。
「何本、十何本、何十本の傘を折ってきたるうちゃんは、随分と長いこと、その傘を折らずに使っているわね。もうかれこれ八年になるかしら」
「そうだね、キミと会った日に借りたものだから、そうなるね」
時が経つのは早いよ、なんておばさんみたいなことを言っていると、八年来の友人はニヤと笑んだ。
「もうそろそろ、傘で飛べるようになった頃じゃない? 魔法使いの卵さん?」
「さあねえ。どう思う、魔法使いのお嬢さん?」
曇りの日の夜空のように真っ黒な、ボクの蝙蝠傘。
大きな弧を描くように縁をカットされたこの傘には、ネームバンドには銀の星が、ハンドルからは銀の鳥のモチーフのチャームがぶら下がっている。
夜闇の中、遠い天上にひとつぽっち浮かぶ星を目掛けて飛ぶ鳥が、なんだか自分に似ている気がして、ボクはこの傘をひどく気に入っていた。
これは魔法使いの傘。
在りし日に、ボクが出会ったばかりの朔夜ちゃんから借りた傘だ。
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