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#15.Save the Earth ――人口問題――
街路に出た瞬間、俺の体は融け始めた。
……暑い。暑過ぎる。
俺の体も、もはや融けるを超越して、焼肉のような匂いさえ漂わせている気がしてくる。
建ち並ぶビルが照り返す、初夏の容赦ない陽光。
窓の数だけ存在し、暑苦しい吐息を垂れ流し続ける、エアコンの室外機。
そして灼けたアスファルトから立ち昇る、焦げ臭い空気。
まさにヒートアイランドの爆心地(グラウンド・ゼロ)だ。
『地球温暖化』、などと云われて久しい。
だが一方で、今の地球は間氷期に過ぎず、実は寒冷化が始まっている、などと主張する人もいる。
この地質年代から連なる地球の歴史から見れば、人類文明の活動など、黒板にこびりついたチョークの厚み程度。
そんなものが地球の環境に悪影響を及ぼす、などという考えが、人類の思い上がりに過ぎない、なんて意見も聞いたことがある。
などと割とどうでもいいことを考えながら、俺は今しがた出て来たばかりの建物へと振り返った。
灼熱のアスファルトから揺らめく陽炎を通して、小ぢんまりとした建物が見える。
小洒落た造りの、ガラス張りの建物だ。
その私設ギャラリーの玄関の脇には、一枚の看板が立ててある。
縦長の白い板には、縦書きで黒く無機的なアルファベットが並ぶ。
――Save the Earth――
俺が出て来たばかりのギャラリーで開かれている、ちょっとした展覧会だ。
展示数は、数十点ほど。
知り合いからチケットをもらい、俺もちょっとお邪魔してきたところだ。
油彩、水彩、インクなどのマトモな絵もあれば、新聞を貼り合せたようなものや、画材もハッキリしない半立体造形のような、現代芸術もある。
技法や作風には全く統一感がない。
が、目指す方向はただ一つだ。
――Save the Earth――。
展覧会のテーマは地球環境、野生動物保護、それに戦争や人口問題。
どれもこれも、ヒューマニズムという感情ゴリゴリとに訴えてくる、重い作品。
どうやらエコを標榜する先進企業の主催らしい。
確かに、現代世界の抱える問題は深刻で遠大だ。
地球温暖化のせいか、地表は干涸びるばかり。
地球の総人口は膨れ上がる一方で、生物の種族数は減少の一途をたどる。
だが目下の俺が直面する課題は、俺を救うことだ。
じりじり焦げる脳天と、乾くばかりの俺の喉を何とかしなくては。
そこで俺は、冷房の効いたバスへ、とっとと避難することにした。
最寄りのバス停に立った俺は、陽光を浴びてぎらめくギャラリーをチラ見する。
昼間の太陽を煌々と反射して、さらに排熱に揺らめくガラスの建物。
見ているだけで、額の汗はイグアス状態だ。
……暑苦しいんだコノヤロー!
などど俺が黙って悪態をついたのと同時に、バスがやってきた。
俺はためらうことなくバスに乗車し、空いた吊革に掴まった。
即座に何かアナウンスが流れ、バスが発車した。
冷房が効き、涼しい空気が詰まった車内は、やはり満員御礼だ。
座席は全て埋まり、吊革という吊革には、もれなく誰かぶら下がっている。
それでも乗客数は定員内に収まっているらしく、車内環境は快適だ。
個人的ヒートアイランドをひとまず回避して、俺はふう、と息をつく。
と、その時、俺の股間に何か細長い物が触れた。
びくんと仰け反った俺。
……オトコ専門の痴漢か? オロチの睨み合いは勘弁してくれ。
などと思いつつ、俺はそろそろと視線を下ろしていく。
すぐに俺の股間に見えたのは、俺の股座を撫でるウナギのような、黒光りする細長いもの。
先っぽは、矢印のように尖っている。
そのウナギだがヘビだかの根元を目でたどると、その黒いシロモノは、正面に立つ男の尻に繋がっていた。
高級そうなグレイのスーツに身を包む、エリートビジネスマンの後ろ姿。
それも、ゆらゆら揺れる黒いしっぽ付きときた。
シュールな光景に、俺の視線は釘付けだ。
……何だ? コイツは。
俺の心の声が聞こえたのか、吊革にぶら下がったままの男がくるりと向き返ってきた。
「どうかしましたか? 私に何か付いています?」
低く渋い声を響かせる、ダンディーな中年男。
そのロマンスグレイのオールバックに、二本の角が付いている。
呆気にとられた俺のマヌケ面を見て、男がハッと目を見開いた。
「おっと、これは失礼」
男が口走った瞬間、頭の角も尻のしっぽも、するりと男の中に引っ込んだ。
そうなってしまうと、俺の前に佇むのは、立派過ぎるビジネスマンだ。
輝くようなカリスマとオーラを燦然と放つ、ミスター・プレジデント。
……コイツ、何者だ?
俺が訝るなり、男がこう言った。
「私、悪魔です」
「は?」
一文字発した俺に、男が繰り返す。
「ですから、私、悪魔です」
ワケが分からず、目を白黒させるばかりの俺は、つい口走る。
「あなた、大丈夫ですか?」
何だか桁ハズレに失礼な質問だが、そう問わずにはいられない。
お薬を出してもらった方がいいんじゃなかろうか?
などと無礼千万な俺を前に、男は落ち着き払った余裕の笑みを見せている。
……ヤバい、惚れるかも。
俺が危惧したその途端、バスが止まった。
市内の公園に立つバス停だ。
自称『悪魔』のオジサマが、吊革を放した。
つい俺も、下車する男を追ってバスを降りる。
降りた先は、緑豊かな公園だ。
管理人も常駐していて、まさに乾いたビジネス街のオアシス、といった風情が漂う。
無人のバス停から離れた男は、そのまま自販機の方へと歩いていく。
何となくついてゆく俺の前で、男が自販機にコインを投げ入れた。
即座に重い音が自販機を揺らし、男が取り出した缶を俺に差し出した。
雫滴る缶には、『フェアトレードコーヒー!』などと云う煽り文字が、でかでかと印字されている。
自称『悪魔』も同じ缶コーヒーをぷしっと開けて、ぐいっと呷った。
そうして、ぷはっと爽やかな息をついてから、男が俺に向き直る。
「いやいや、先ほどはお見苦しいものをお見せしました。実に申し訳ありません」
紳士的に詫びを入れ、男が苦笑を洩らす。
「最近は私も疲れ気味でして。つい気が緩んでしまいました。役員の仕事が立て込んでおりまして……」
男が口にした会社の名前は、先進エコで急に業績を上げてきた企業のものだ。
そういえば、さっき俺が観て来た“Save the Earth”も、主催はその会社だったハズだ。
男がにっこりと笑い、気高げな仕草で深々と頭を下げた。
「ああ、それはそれは。ご来場、ありがとうございます。収益は、地球環境の改善のために、有効に使わせて頂きますので……」
そこで男が悩ましげにうつむいた。腕を組み、深刻なため息を洩らす。
「わが社は環境問題に真剣に取り組んでおりましてね。その中でも殊に人口問題といったら、喫緊の課題でありまして」
「というと、人口爆発の問題とか?」
すると男が、首を横に振った。
「いえ、逆ですよ。人口減少です」
……確かに先進国では人口が減ってきているそうだ。
少子高齢化のせいらしい。
と、思った俺に、男が深刻そうに顔をしかめた。
「実は最近は人間が悪魔化して、人口が減りましたのでね。我々悪魔が人間化して、減った人口を埋めている次第でして」
男の素っ気なくもアヤシ過ぎる言葉が、俺の喉に刺さる。
そう云えば、最近は何やら猟奇的で、非人間的で、おかしな事件が続発している気がする。
何とも言えないもやもや、ぐるぐるとした混沌の気分に襲われた俺の前で、男が豪勢な腕時計に視線を落とした。
「おっと、もうこんな時間。わが社に戻って、会議に出なければ……」
一気に缶コーヒーを飲みほした男が、空き缶を丁寧に空き缶入れへと投げ入れた。
そして俺から十歩ばかり離れ男が不意に振り向き、俺にこう問いかけた。
「あなた、大丈夫ですか?」
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