青い空の下で

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 青い空の下で、君は水玉模様の傘を開いて屋根の上に立っていた。  瓦葺きの屋根はカラリと晴れた初夏の日差しを跳ね返して、僕がベランダから見る景色を蜃気楼のように熱で揺らしている。  梅雨が始まっていたはずなのに、今日だけはなんだか良い天気。  屋根の上で空に向かって開く水玉は太陽の光にキラキラと輝いていて、その下で傘の()を持って立つ君は、ビニール越しの日差しを白い頬に受けて微笑んでいた。  君の瞳は水玉の向こうの空を物欲(ものほ)しげな瞳で見上げている。 「何をしているんだい?」 「傘をさしているの」 「それは見ればわかるよ」 「やっぱり?」  君はそう言って悪戯っぽく微笑んだ。  銀黒の瓦屋根を踏みしめて裸足で立つ君の肌色が、白いワンピースの下からほっそりと伸びている。「足の裏が熱くないのかな?」なんて、そんなことを僕は考えたりもした。    僕の立つベランダは雑然とした日陰で、頭の上には数本の物干し竿が走っている。物干し竿には僕のTシャツと、母のスカート、ピンチハンガーには僕のパンツに靴下、母のパンツにブラジャー。  ちょっと不思議でフォトジェニックな君と違って、こちらは生活感溢れる世界だ。  僕はコンクリートの手摺に頬杖をつく。 「だって、晴れてるじゃん」 「晴れてたら傘をさしちゃいけないの?」 「いけないってわけじゃないけれど、何をしているのかなって」  傘をさすのは雨を凌ぐため。  悲しい雨は、僕らを濡らし、頬の上の涙に化ける。  雨が降って湿度が高いと辛気臭くて、湿っぽい空気は、僕らの心を鬱に染める。  傘って雨の象徴だからさ、気分を滅入らせるような、それでいてやっぱり、僕を守ってくれるような、そんなアンビバレンツな感じがするんだ。  本当は傘は優しく僕らを雨から守ってくれる存在のはずなのにね。 「空から雨は降らなくてもね」 「うん」 「空に水玉を広げることはできるんだよ」  そう言って、君はもう一度、さした傘を高く掲げて見せた。空覆うように高く。自由に。透明な可能性を大空へと広げるように。  傘の外側は空高く太陽まで広がる未来。  でも、傘の内側にあるのが定められた君の空間なんじゃないか。  ここで頬杖を突く僕には、君が誇らしそうにビニール傘を持ち上げる様子に目を細めて、ただ、可愛らしい君の姿に見惚れるくらいしか選択肢は無いのだ。  どこか俯瞰的に。  君の視点から見れば、広げた傘は空を覆い、確かに水玉模様が広がっているのだろう。その一つ一つの煌めきを、君はどんな思いで見ているのだろう? 「雨乞いでもしているのかい?」 「雨乞い? 違うよ。なんで?」 「だって、水玉を広げるなんて言うから。雨乞いでもしてるのかと思ったよ。大昔の巫女みたいにさ」  そう僕が言うと、君はキョトンとした顔で首を傾げた。 「どうして、私が雨乞いなんかしなくちゃいけないのよ? そんなことしなくても、雨の季節は来ているって言うのに」 「だよな。わりぃ。なんでもない」  君は少し寂しそうな微笑みを浮かべた。僕は嫌なことを言ってしまった自分に少し辟易する。本当に辛いのは君自身なのに。僕が見つめる君なのに。  少し風が吹いて、君の纏う白いワンピースの裾がはためいた。 「それで、なんで屋根の上に立っているのさ?」 「あなたに会えないかなって思って。見つけてもらえるかなって思って」 「……そりゃ、どうも」  それはちょっと嬉しかった。 「でも、どうして傘をさしているのさ?」 「知りたい?」 「まぁ、そうだな」 「どうして?」 「どうしてって……、特に理由は無いけれど」 「理由も無いのに、私の気持ちを聞くの?」  君が僕の表情を覗き込む。変わらない何かを確認するように。 「気持ちを聞くって言っても、傘をさしている理由だけだしさ。そこまで心情的なものでも無いだろう?」 「そうかしら? 人の行動の理由なんて、多分に心情的なものよ。私がここに居ることだって、とても心情的なものかもしれない」 「――心情的なものなの?」 「どうかしら?」  そう言って君は可笑しそうに微笑んだ。いつもみたいに僕を困らせて。   「ねぇ、傘をさすのってどんな時だと思う?」 「そりゃあ、雨が降っているときだろうね。常識に照らせば」 「そうね。でも、常識っていつも従わなくっちゃいけないルールなのかしら? どんな特別な時でも?」 「それは違うけど。普通は従うってことで」 「だよね。世の中の因果律とか、どうしようもないこととは違う。だから、――傘くらいさしたっていいじゃない?」 「世の中の因果律って?」 「う〜ん、溢れたミルクはコップには戻らないとか?」 「林檎は木から落ちるけど、勝手に木には戻らないとか?」 「ことわざで言えば『覆水盆(ふくすいぼん)に返らず』かしら?」 「それは因果律っていうよりかは、ことわざだよね。変えられない因果律ってもっと、真っ白で色が付いてないやつなんじゃないかな?」  僕は君の白いワンピースを眺めた。  それは、去年の夏の誕生日に母親と一緒にデパートに行って買ってもらったと、君が言っていたワンピースだった気がする。  去年、一緒にプールに行った時、君が着ていたのを覚えている。  その白いワンピースは去年の夏と変わらずに綺麗だった。  僕は好きだな。君に似合っている。  真っ白で、純粋で、変わらないもの。  それは、変えられないもの。 「それに比べたら晴れた日に傘をさすぐらい大したことじゃないってこと」 「そりゃ、そうだけどさ」 「無かったことを有ったことにしたり、失われたものをまだ在るようにしたり――」  そう言って君は言葉を止めた。  一瞬声を詰まらせた君は、傘は空に広げたまま、一度、ビニールの向こう側の空を、その薄っすらとした障壁越しに眺めて、そして、僕へと視線を下ろした。 「どうしたの?」 「ううん……、なんでもない。でも、変わらない――元気そうだなって思って。ちょっとだけ安心した」 「いや、流石に、元気ってわけじゃないよ」 「そうなの?」 「うん。そりゃあ、そうさ」 「……良かった。……って良くないか?」 「……ううん、良いんだよ。心配は掛けたくないから良くないけれど。でも、ちゃんと元気でなくなっていることは良いことなのかもしれないなぁ。僕は嫌いじゃないんだ。ちゃんと人の心をしてるって感じがして。今の自分は」  そう僕が言うと、君は一つ溜息をついた。 「だからよ。だからあなたのことが心配になるのよ」 「別に、心配してくれなくても良いよ」  心配してくれるのは嬉しいけどさ。そうやって、僕のことを思ってくれていたってことだから。でも、心配させたくもないんだ。 「また、強がりばっかり」 「強がりくらい言わせてよ。僕だって男の子なんだから」  僕がそう言うと、君は傘の下でそっと目を細めた。「そうね」って。   「でもね。空が晴れた日にだって、傘はさして良いのよ」 「でも、それじゃ、人に変な目で見られちゃうじゃないか」 「変に見られたって良いじゃない?」 「やだよ」 「良いの。――だって、それは必要なことだから」 「どうして?」 「だって、本当は雨が降っているのだもの」 「こんな晴れた日に、雨が降っているだなんて、そんなはず無いじゃないか」  君は首をゆっくりと振る。ボブカットの髪がふぁさりと揺れた。  僕からは手が届かない瓦屋根の上で。 「雨は降っているのよ。私たちの梅雨は、あの日始まったのだから」 「僕の梅雨じゃなくて、それは、君の梅雨でもあるのかな?」 「もちろん、そうよ。これは私の梅雨でもあるわ。もう、濡れることなんてできないけれど」 「そっか。そうだよね」 「だから、私にとって、もう、傘はそういう存在じゃないの。雨はそういう存在じゃないの」 「じゃあ、雨って何なの? 傘って何なの?」  傘をさすのは雨を凌ぐため。  悲しい雨は、僕らを濡らし、頬の上の涙に化ける。  雨が降って湿度が高いと辛気臭くて、湿っぽい空気は、僕らの心を鬱に染める。  雨が涙のメタファーならば、傘はそれに耐える想いのメタファーだ。 「晴れた日でも傘はさせばいいの。だって、雨は降っているんですもの」  そう言って悲しそうに、でも、優しそうに微笑む君に、僕はただ「そうだね」と応じることしか出来なかった。  目を閉じる。  ベランダの上で一人、君の住んでいた家の方を向きながら、瞼の裏にいくつもの情景を思い浮かべた。小学生の時の君、中学生の時の君、高校生の時の君。一緒に出かけたいくつもの店、一緒に学んだいくつもの教室。修学旅行。デート。花火大会。プール。君の部屋。君の笑顔。君の身体。  一つ一つの君の姿が、思い出される度に、僕の胸を締め付ける。  そして、あの雨の日、車道の片隅で倒れながら雨に打たれていた君の姿が浮かぶ。その映像をかき消すように、雨は降っていた。  あの日以来、ずっと僕の中にはしとしとと雨が降っている。  少し早く始まった梅雨の季節は、止まない雨を降らせ続けているんだ。  目を閉じていても、変わらない君の姿が見えた。  白いワンピースで、水玉模様の傘をさして。    君はそっと、その傘を僕に差し出した。 「ずぶ濡れだよ。せめて、この傘を受け取って」  そう言って君は一つ微笑んだ。「わかったよ」って僕は答えた。  目を開く。  生活感溢れるベランダから眺める空は、やっぱり青空で、外には雨一つ降っていなかった。視線を下ろして、君の住んでいた家の屋根を眺める。  誰もいない銀黒の瓦屋根の上には、水玉模様のビニール傘が一つ落ちていた。
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