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冷淡と怒り
「ねえ、ヤスの夢ってなに?」
思い切って言ってしまってから、ああやっぱりこんなこと訊かない方がよかったと後悔した。ヤスは思いっきり眉毛を歪ませて、ベッドの上から不審げな目線を投げかけてきた。
「僕に興味なんかないくせに」
「そんなことないよ。ほら私達、お互いの事あんまり知らないじゃない」
「ふーん」
ヤスはふふんと鼻で笑って、持っていたタブレットに目線を戻し、声だけをこちらに投げ掛けた。
「数学のテストで50点以下の点数しか取れない人って本当にいるんだね」
「あっ…!なぜそれを…っ」
「勘違いするなよ。僕は記憶力がいいだけだ。隣で山川さんとあれだけの声で喋ってたら、こっちにも聞こえてくるに決まってるだろ」
「なーんだ」
「さっきお互いって言ってたけど、そんな訳で僕は君のことを案外知っていると思うよ?知らないのは君の方じゃないかな」
「ぐっ……」
「よしなよ。僕に興味なんてないでしょ。どうせ一生の付き合いなんだし、無理に仲良くしなくたっていいじゃん」
まあ私がヤスに興味がないのはそうだけど、それを認めたらおしまいな気がしたので黙っていた。結局ヤスは質問には答えないつもりらしく、隣のベッドで目を瞑ってしまった。もしかしたら体調不良をまだ引きずっているのかもしれない。まどかの言葉を真に受けてほいほい訊いてしまったせいで、なんだかややこしいことになった。まどかには今度学食のパンでも奢ってもらわないと。
「じゃあ、君の夢はなんかあんの」
「えっ」
ベッドに備え付けてある小さいモニターで映画を見ていた私は、話し掛けられて体中がぞわっとしてしまった。すっかり寝ていると思っていたヤスは、顔をこちらに向けて私を睨むように見ている。ただこの目は彼がとても眠い時にもする目付きなのは知っていたから、私は彼が怒っているのか眠いのか判断が付かなかった。
「わかんない…」
だってバスケは好きだけど選手にはなれるほどじゃないし、じゃあ勉強ができるかと言ったらそうでもないし、カラフルである以上どこに住むかという自由すらないではないか。結婚相手だってもう決まったようなものだ。大きくなったら何になりたいかということを、いつから考えなくなったんだろう。幼稚園児の時には無邪気にも色々なものになりたい思っていたけれど、自分の体のことを知るうちに、いつの間にか言わなくなっていた。ヤスは瞼を何度もゆっくり閉じたり開けたりしていた。眠いのを堪えているというのが正解だったようだ。
「自分でもわかんないことを、僕に訊いたって仕方ないでしょ」
「でもさ、パートナーのことを少しくらい知ったっていいなって思ったから」
それは本心だった。まどかに言われて、私がヤスについて知っていることを改めて考えてみたが、名前と年齢と声、男子校に行っているということ、ベッドで寝ている時の姿勢や、数える程しか見た事のない私服姿くらいしかなかった。どういう趣味があって、教科は何が好きで、休みの日は何をしているのか、興味を持った今訊いてみないと、夫婦になっても一生知らないままになりそうで不安になったのだ。
「ほら、ヤスが将来何になるかって私にも影響する訳だし」
「そんなの君に関係ないだろ」
「いや関係あるでしょ。だって住む場所も」
「僕に夢なんかない!!!!」
普段どちらかというとぼそぼそと喋るヤスが大声をあげたので、このフロア中のスタッフや医師がこっちを見た。ヤスは顔を紅潮させて眉を厳しく持ち上げていたが、寝返りを打って体全体を向こう側に向けてしまった。戸惑っている私の枕元に山川さんがやってきて、悲しそうな顔で無言でただ頷いてくれた。びっくりしたかもしれないけど、大丈夫よ、仕方ない。そう言っているようだった。
処置が終わって二人の腕から針が抜かれても、ヤスの姿勢は変わらなかった。あまり仲の良くない私達ですら、いつも帰り際にはまたねくらい言い交わすのに、今日は何も言えずに更衣室に行くしかなかった。
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