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はじまり
ああ気が進まない。でも行かない訳にはいかない。
今日は珍しく勉強がはかどって、学校の自習室で集中して数式を解いていたら、もう出ないといけない時間になっていた。これから長い間バスに揺られていなければならないが、途中下車したところで、道中に借りられるトイレはない。私は遅刻の覚悟を決めてタブレットや水筒をリュックにしまい、それをテーブルに置いたまま廊下に出た。どうせ予定通りの時刻に着いても、相手は「五分前行動が基本じゃないのか」などと詰るのだ。いつだったか、必要があって約束の時間よりかなり前に行った時、相手が暇そうにタブレットを眺めていたのを見てしまった。相手がいつも三十分以上前に来ていると知って益々嫌になった。自分が暇人だからって、こっちに自分と同じ行動を求めないで欲しい。つまんない男だから誰にも相手されないだけじゃないの、と思い出して悪態をつく。
廊下でキヨとすれ違った。
「かほ、まだ居たの。今日アレだったんじゃないの?」
「うんそうなの。もう遅刻確定」
「あーあ。まあ遅れてもなんとかなるでしょ」
「作業自体はね。でもアイツうるさいから」
「かほももう少し気を付けなよ。相手とうまくやっているかどうかも効果に影響するみたいだぜ」
「それ絶対ガセネタだって!」
キヨがこんなこと言うのは、私が今日のことを心底嫌がっていることを知っているからだ。その証拠に、私が半ば本気で怒っている顔を見てにやにや笑っている。でも、キヨにからかわれるのは嫌いじゃないし、キヨもそのことを知っているから安心して私をからかっているのだ。
廊下に誰もいないことを確認してハイタッチをする。キヨは私よりニ十センチも背が高いので、私の方は文字通りハイタッチだけど、キヨの方は「まあまあ」って宥めているようなポーズになる。自習室の入り口で二手に分かれた。もう少し勉強をしていくらしい。
今まで意識していなかったのだが、病院行きのバスは案外本数があった。大幅な遅刻を覚悟していた私は一瞬ほっとしたが、あの病院を必要とする人が多いからだと考えると心が曇った。丁度銀色の車体がバス停に入ってきたので、乗降口まで走り、なんとか乗り込んだ。このバスのにゅるんとしたシートにはいつまでも慣れないし、ふわりと宙に浮く瞬間は背中がぞくっとして好きになれない。私は主治医とあいつの両方に遅れる旨の連絡を入れた。バスはすぐに長い長いトンネルに入った。トンネル内は電波も通じないし、いやに乗り物酔いするから何にもできない。強制的に休息を取らせようとしているのかもしれない。バスに乗るたび考えることだ。私は窓の外を糸のように流れていくオレンジ色の照明をぼんやり見ていた。電波が来ないから、あいつの返信が届かないのはいいかもしれないな。いつも無為だと思っていた時間に、今日は意味が出来たので私は頬を緩ませた。
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